「来られる」について その2

新改訳聖書』第3版の詩篇18篇9節に、次のように書かれています。
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18篇9節
主は、天を押し曲げて降りて来られた。
暗やみをその足の下にして。
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主は降りて来られた、ということが書かれています。

 

2行目に、「暗やみをその足の下にして。」とあります。

 

詩篇18篇11節と12節には、次のように書かれています。
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11節
主はやみを隠れ家として、回りに置かれた。
その仮庵は雨雲の暗やみ、濃い雲。
12節
御前(みまえ)の輝きから、密雲を突き抜けて来たもの。
それは雹と火の炭。
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9節2行目の「暗やみ」というのは、11節2行目の「・・・雨雲の暗やみ、濃い雲・・・」のことではないかと思われます。

 

それはまた、12節の「・・・密雲・・・」のことと思われます。

 

雨雲が「濃い雲」であり、「密雲」であるならば、その下は、「暗やみ」であると想像されます。

 

これらの節の記述から、主は『雲の上まで』来られた、と言うことができると思います。

 

雲の下は「暗やみ」である、と想像されますが、『雲の上』は、主の栄光で光輝いているのではないかと想像されます。

 

12節に、「御前(みまえ)の輝きから、・・・」とあります。これは『雲の上』でのことである、と言うことができるので、『雲の上』には『輝き』がある、と言うことができると思います。

 

引用された詩篇の記述からすると、主は『雲の上まで』来られましたが、そのとき、雲の下は「暗やみ」であるのに対して、『雲の上』には光があり輝きがある、と考えられます。

 

いかがでしょうか、どのように思われますか。