「来られる」について その1

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書16章27節に、次のように書かれています。
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16章27節
人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。
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1行目から、「人の子は父の栄光を帯びて、御(み)使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。・・・」とあります。『父の栄光を帯びて』、とあります。

 

また、マルコの福音書8章38節に、次のように書かれています。
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8章38節
このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御(み)使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」
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2行目から、「・・・人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御(み)使いたちとともに来るときには、・・・」とあります。

 

マタイの福音書15章27節と同じように、『父の栄光を帯びて』、とあります。

 

これらの言葉から、「人の子」が来られるときには、『父の栄光を帯びて』来られる、ということが分かります。

 

これは、「人の子」は『父がともにおられる』方として来られる、ということではないか、と思われます。

 

つまり、「人の子」は『神である主』として来られる、ということではないかと思われますが、いかがでしょうか。

 

どのように思われますか。