「世の終わり」について その4

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書13章29節と30節に、次のように書かれています。
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29節
 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集める

 うちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
30節
 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきな

 さい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、

 まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほ

 うは、集めて私の倉に納めなさい、と言いまし

 ょう。』」
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30節3行目の「まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。・・・」が、「つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。」(13章41節から42節にかけて)に当たり、30節3行目からの「・・・麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい・・・」が、「天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」(24章31節)に当たるのではないかと思われます。

 

13章30節(上記)2行目の「・・・刈る人たち・・・」というのは、同章39節(その3、中ほど)の「・・・刈り手・・・」のことで、「御使いたち」のこと、と考えられます。

 

つまり、「毒麦を集め、焼くために束に」するのは「御使いたち」であり、また、「麦のほうは、集めて私の倉に納め」るのも「御使いたち」である、ということです。そのために、「人の子」は「御使いたちを遣わ」す、と思われます。

 

13章30節(上記)に書かれていることは、「収穫の時期」のことです。すなわち、「この世の終わり」のときのことです。同章39節に、「・・・収穫とはこの世の終わりのことです。・・・」と書かれています。

 

「収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」(30節2行目から)というのは、「この世の終わり」のときのことである、と言うことができます。

 

「収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」というのは、「人の子」がその御使いたちを遣わすときのことだと思われます。

 

つまり、マタイの福音書24章31節(その3、前半)の「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」というのは、「人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来る」(24章30節)ときのことであると考えられるのですが、それはまた、「収穫の時期」のことであり、「この世の終わり」のときのことである、ということです。

 

マタイの福音書24章27節と28節を別として、同章4節から29節までに書かれていることは、「あなたの来られる時や世の終わり」の『前兆』であるのに対して、30節以降に書かれていることは、「あなたの来られる時や世の終わり」のときのことである、と言うことができると思います。

 

その5、に続きます。