「世の終わり」について その6

新改訳聖書』第3版のペテロの手紙 第二3章6節と7節に、次のように書かれています。
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6節
当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
7節
しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
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7節1行目から、「・・・今の天と地は、・・・火に焼かれるためにとっておかれ・・・ているのです。」とあります。「今の天と地」は「火に焼かれる」、ということが分かります。

 

ペテロの手紙 第二3章10節に、次のように書かれています。
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3章10節
しかし、主の日は、盗人(ぬすびと)のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消え失せ、*天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは**焼け尽くされます。

 

* 別訳「諸原素」
** 異本「見つけ出されます」

 

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2行目から、「・・・その日(すなわち、主の日)には、・・・天の万象(別訳、諸原素)は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼け尽くされます。」とあります。これは、「今の天と地」(Ⅱペテ3:7)が「火に焼かれる」ときのことではないか、と思われます。

 

おそらくですが、マタイの福音書13章40節(その3、中ほど)の「・・・毒麦が集められて『火』で焼かれる・・・」というのは、このときのことではないかと思われます。

 

「不敬虔な者ども」(Ⅱペテ3:7、上記)が滅びるのも、このときではないでしょうか。

 

そして、「今の天と地」が「火に焼かれる」ときに、「不敬虔な者ども」が滅び、地にはだれもいなくなる、すなわち「世の終わり」(マタイ24:3)、もしくは、「この世の終わり」(マタイ13:39・40)になるのではないかと思われます。

 

一方、「麦のほうは、集めて私の倉に納め」られる、すなわち、「天の果てから果てまで、四方からその選びの民(を)が集め」られる、ということだと思います。「今の天と地」が「火に焼かれる」ときには、「選びの民」は「空中」に引き上げられているのではないか、と思われます。

 

ペテロの手紙 第二3章7節(上記)1行目から、「・・・今の天と地は、・・・不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」とあります。

 

地には「不敬虔な者ども」だけがいて、その者たちが地に「集め」られ、「束に」されている、のではないかと思われます。


「束に」されている、というのは、地に「集め」られている、ということです。いかがでしょうか。

 

「不敬虔な者どものさばきと滅びとの日」(Ⅱペテ3:7)というのは、「毒麦が集められて火で焼かれる」(マタイ13:40)ときのことではないかと思われます。

 

「不敬虔な者どもの・・・滅び」(Ⅱペテ3:7)というのは、その者どもが「火で焼かれる」ということではないでしょうか。

 

どのように思われますか。