「世の終わり」について その7

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書24章37節から41節までに、次のように書かれています。
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37節
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
38節
洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
39節
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らは*わからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 

* 直訳「知らなかった」

 

40節
そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
41節
ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
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「人々(は)が、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしてい」(38節)るときに、「人の子が来る」(39節)、と言うことができると思います。

 

40節に、「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」とあり、41節に、「ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」とあります。

 

「ひとりは取られ」、というのは、「空中」に引き上げられる、ということではないかと思われます。また「ひとりは残されます」、というのは、「地に」残される、ということだと思います。

 

「取られる」というのが「空中」に引き上げられる、ということだとすると、「人の子」は「空中」にいる、ということになります。

 

「御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます」(マタイ24:31)、というのは、『引き上げられた』「その選びの民を集めます」、ということではないか、と思われますが、いかがでしょうか。

 

一方、「残される」のは、「毒麦」(マタイ24:38など)であり、「つまずきを与える者や不法を行う者たち」(マタイ24:41)、あるいは、「不敬虔な者ども」(Ⅱペテ3:7)である、のではないでしょうか。

 

その8、に続きます。