「罪」について その8

新改訳聖書』第3版の創世記2章17節(その5、冒頭)と3章6節(その5、前半)の記述から、アダムは、善悪の知識の木から取って食べたときに『死んだ』、と考えられます。

 

それは、「罪によって死が入り込んだ」(「新共同訳」ローマ5:12、その7前半)、ということだと思います。

 

それ以降は、アダムは「死んでいる」、ということになります。

 

そしてアダムは、九百三十年生きて「死んだ」、と書かれています。創世記4章5節をご参照ください。

 

この場合の「死んだ」は、「肉のからだ」が死んだ、すなわち、いわゆる「心肺停止」で死んだ、ということである、と言うことができると思います。

 

新改訳聖書』第3版のエペソ人への手紙2章1節と2節に、次のように書かれています。
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1節
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2節
そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
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1節に、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、」とあります。

 

この中の『死んでいた』というのは、いわゆる「心肺停止」で死んでいた、ということではありません。

 

では、どのようなことであると考えられるでしょうか。

 

新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙6章9節と10節に、次のように書かれています。
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9節
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
10節
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
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10節に、「・・・キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」とあります。

 

「罪に対して死なれた」とあり、「神に対して生きておられる」とあります。

 

アダムの場合は、『逆』ではないでしょうか。

 

つまり、アダムは「罪に対して生きた」のであり、「神に対して死んだ」のである、ということです。

 

エペソ人への手紙2章1節(上記)の『死んでいた』というのは、『神に対して死んでいた』、ということであると考えられます。「罪」について、の「その3(2021-10-28)」と「その4(同)」を参照していただけたら、と思います。

 

その9、に続きます。