「とりこ」について その3

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書12章12節(その2、第二段落)2行目から、「・・・彼は顔をおおうであろう。彼は自分の目でその地をもう見ないからである。・・・」とあります。

 

これによって、「彼(すなわち、彼らのうちにいる君主)」は、「その地」にはもう帰らない、ということが示唆されていると思います。

 

12章13節に、「・・・わたしは彼をカルデヤ人の地のバビロンへ連れて行(い)く。・・・」とあり、また、「・・・しかし、彼はその地を見ないで、そこで死のう。」とあります。


つまり、その君主は、カルデヤ人の地のバビロンで死ぬので、「その地」にはもう帰らない、したがって、「その地をもう見ない」(エゼ12:12)、ということであると思います。

 

エゼキエル書12章13節は、次のようになっています。
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12章13節
わたしはまた、彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。わたしは彼をカルデヤ人の地のバビロンへ連れて行(い)く。しかし、彼はその地を見ないで、そこで死のう。
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12章12節(その2、第二段落)の当該箇所は、「彼は自分の目でその地をもう見ないから」、「彼は顔をおおうであろう。」という文脈になります。この場合の「その地」というのは、イスラエルの地」のこと、と考えられます。

 

これに対して、12章13節最後の行の「・・・その地・・・」というのは、「イスラエルの地」のことではなく、「カルデヤ人の地のバビロン」のこと、と言うことができます。

 

「彼」すなわち「彼らのうちにいる君主」は、なぜ、「その地(すなわち、カルデヤ人の地のバビロン)を『見ない』で、そこで死」ぬ、ことになるのでしょうか。

 

列王記 第二25章7節に書かれていることが、その理由として考えられます。

 

列王記 第二25章7節は、次のようになっています。
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25章7節
彼らはゼデキヤの子らを彼の目の前で虐殺した。王はゼデキヤの目をつぶし、彼を青銅の足かせにつないで、バビロンへ連れて行(い)った。
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1行目から、「・・・王はゼデキヤの目をつぶし・・・た。」とあります。「王」というのは、「バビロンの王」(Ⅱ列25:6)のことです。「・・・バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし・・・た。」となります。

 

もし、エゼキエル書12章13節に書かれていることが、列王記の時代、ユダの王ゼデキヤの第十一年のことだとすると、「・・・彼(すなわち、彼らのうちにいる君主)はその地(すなわち、カルデヤ人の地のバビロン)を『見ない』・・・」(エゼ12:13)のは、目がつぶされるからではないか、と考えられます。

 

いかがでしょうか。

 

その4、に続きます。