「神の子ども」について その5

御子は地上に来られて、「イエス」というお名前を与えられました。

 

エスは、女の人から生まれ、「人の子」となられました。

 

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書3章16節と17節に、次のように書かれています。
***
16節
こうして、イエスバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊(みたま)が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
17節
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
***

 

16節に、「・・・イエスバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊(みたま)が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」とあり、17節に、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」とあります。

 

「これは、わたしの愛する子・・・」というのは、神の声と考えられます。神が「わたしの愛する子」と言われたのだとすると、イエスはこのとき、「神の子」とされた、のではないでしょうか。

 

「御子」は神であり、神の子なのですが、「イエス」は人であり、人の子です。「わたしの愛する子」というのは、このとき、人の子であるイエスが「神の子」とされた、ということが宣言された、ということではないかと思います。

 

人の子であるイエスが「神の子」とされたことによって、わたしたち人も、「神の子」とされる望みが生まれた、と言うことができると思います。

 

エスには「神の御霊(みたま)が鳩のように下って、自分の上に来られ」たときに、「これは、わたしの愛する子・・」という声が聞こえました。つまり、「神の御霊(みたま)」が来られたことによって、イエスは「神の子」とされた、ということだと思います。

 

わたしたち人も、「神の御霊(みたま)に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)とある

ように、その人に「神の御霊(みたま)」が宿っている

なら、また、その人が神の御霊(みたま)に導かれるなら、その人は「神の子」とされる、ということだと思い

ます。

 

そして、「実際に」神の子となるのは、「からだの贖われる」(ローマ8:23)とき、だと思います。そして、「私たちのからだの贖われる」(同)のは、「私たち」が「朽ちないものによみがえらされ」(Ⅰコリ15:42)、「御霊(みたま)に属するからだによみがえらされる」(Ⅰコリ15:44)とき、つまり、復活したとき、だと思います。

 

人の子であるイエスが復活されたことによって、わたしたち人も復活する、という望みが生まれた、と言うことができると思います。そして、この望みによって、人は「神の相続人」(ローマ8:17)になることができる、という望みも生まれたと思います。

 

いかがでしょうか。