「神の子ども」について その1

新改訳聖書』第3版のローマ人への手紙8章14節に、次のように書かれています。
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8章14節
神の御霊(みたま)に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
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「・・・だれでも神の子ども『です』。」とあるのですが、一方、19節には、次のように書かれています。
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8章19節
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
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「・・・神の子どもたちの現れを『待ち望んでいる』のです。」とあります。『待ち望んでいる』ということは、神の子どもたちはまだ現れていない、ということになります。

 

また、23節には、次のように書かれています。
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8章23節
そればかりでなく、御霊(みたま)の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
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2行目から、「・・・子にしていただくこと・・・を『待ち望んでいます』。」とあります。ここにも、『待ち望んでいます』とあります。ということは、まだ子にしていただいていない、ということになります。

 

「神の御霊(みたま)に導かれる人は、だれでも神の子ども『です』。」とあるので、神の子どもは『現れている』、あるいは、「私たち」は、『子にしていただいている』かのように思われます。

 

しかし、8章19節と23節の記述から、神の子どもたちは、まだ現れておらず、また、「私たち」は、まだ子にしていただいていない、ということが分かります。

 

14節の、この場合の『です』は、神の御霊(みたま)に導かれる人は、だれでも神の子どもにしていただくことが定められている、という意味で、神の子ども『です』、ということではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 

神の子どもにしていただくことは定められているが、まだ「全う」されてはいない、ということではないかと思います。「全う」されるのは、「私たちのからだ」が「贖われた」ときだと思います。

 

その2、に続きます。