「天の御国」について その7

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書13章13節に、次のように書かれています。
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13節
わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
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「彼ら」というのは、2節の「・・・大ぜいの群衆・・・」のこと、と言うことができます。

 

マタイの福音書13章1節から3節までに、次のように書かれています。
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1節
その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
2節
すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。
3節
エスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。
  「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
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3節の「彼ら」は「群衆」(2節2行目)であり、その「群衆」というのは、「大ぜいの群衆」(同1行目)のことです。

 

さらに、10節の「彼ら」と、11節の「彼ら」というのも、「大ぜいの群衆」のことであり、上記冒頭13節の「彼ら」もそうです。

 

マタイの福音書13章3節から8節までに、「たとえ」が書かれています。「種蒔きのたとえ」(13章18節、その4前半)です。

 

上記3節1行目に、「イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。」とあります。

 

これは、「イエスは多くのことを、(浜に立っていた)『大ぜいの群衆』にたとえで話して聞かされた。」となります。舟から話して聞かされた、ということです。

 

上記冒頭13節に、「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、『悟る』こともしないからです。」とあります。

 

マタイの福音書13章4節から7節まで(その5冒頭)の、①「道ばたに落ちた」と言われている人、②「岩地に落ちた」と言われている人、③「いばらの*中に(直訳、上に)落ちた」と言われている人が、この『悟る』こともしない人に当たるのではないでしょうか。

 

13章8節と23節(いずれも、その6後半)にあるように、『悟る』人であれば、実を結ぶ、と考えられます。

 

①から③までの人は、「種を蒔く人」(3節、上記およびその5冒頭)が種を「蒔いているとき」(4節、同)の人です。

 

13章4節(その5冒頭)に、「『蒔いているとき』、道ばたに落ちた種があった。・・・」とあります。

 

これは、「道ばたに落ちた」と言われている人のことですが、上記②と③の人も同じように、『蒔いているとき』の人、と言うことができます。

 

ところで、「種を蒔く人」(3節)というのは、誰のことであると考えられるでしょうか。

 

「その4」で述べたように、「種を蒔く人が種蒔きに出かけた」の『種』というのは、『御国のことば』のことと考えられます。

 

『種』が『御国のことば』であるとすると、「種を蒔く人」というのは、「『御国のことば』を蒔く人」のことになります。

 

『御国のことば』を蒔く、というのは、どういうことでしょうか。

 

『御国のことば』を宣べ伝える、ということではないでしょうか。

 

『御国のことば』を宣べ伝えるということだとすると、宣べ伝えるのは誰でしょうか。

 

『イエス』ではないでしょうか。

 

このように、「種を蒔く人」(3節、上記およびその5冒頭)というのは、『イエス』のことである、と考えられます。

 

その8、に続きます。