「天の御国」について その5

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書13章3節から7節までに、次のように書かれています。
***
3節
エスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。
  「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4節
  蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると

          鳥が来て食べてしまった。
5節
  また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなか

           ったので、すぐに芽を出した。
6節
  しかし、日が上(のぼ)ると、焼けて、根がないため

           に枯れてしまった。
7節
  また、別の種はいばらの*中に落ちたが、いばらが伸

           びて、ふさいでしまった。

 

* 直訳「上に」

 

***

 

マタイの福音書13章19節(その4前半)の記述から、「蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった」(4節、その4冒頭)と言われている人は、「御国のことばを聞い」た人である、と言うことができます。

 

19節(その4前半)に、「御国のことばを『聞いて』も悟らないと、・・・」とあるからです。

 

また、「岩地に落ちた」(上記5節)と言われている人と、「いばらの*中に(直訳、上に)落ちた」(同7節)と言われている人も、「御国のことばを聞い」た人である、と言うことができます。

 

マタイの福音書13章20節に、次のように書かれています。
***
20節
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
***

 

1行目から、「また岩地に蒔かれるとは、『みことばを聞く』と、・・・」とあります。

 

「岩地に落ちた」(上記5節)と言われている人は、「みことばを聞い」た人である、と言うことができます。

 

マタイの福音書13章22節には、次のように書かれています。
***
22節
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この*世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。

 

* あるいは「時代」

 

***

 

1行目から、「また、いばらの中に蒔かれるとは、『みことばを聞く』が、・・・」とあります。

 

このように、「道ばたに落ちた」(上記冒頭4節)と言われている人だけではなく、「岩地に落ちた」(同5節)と言われている人と、「いばらの*中に(直訳、上に)落ちた」(同7節)と言われている人も、「御国のことばを聞い」た人である、と言うことができます。

 

「道ばたに落ちた」(上記冒頭4節)と言われている人については、「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行(い)きます」、と言われています。

 

「その人の心に蒔かれたもの」とあります。

 

「その4」で述べたように、「その人の心に蒔かれたもの」というのは、「道ばたに落ちた種」のことであり、それは、「御国のことば」のことであると考えられます。

 

「御国のことば」が「その人の心に蒔かれた」、と考えられるのです。

 

そうであるとすると、「その人」は「御国のことば」を『受け入れた』と言うことができるのではないでしょうか。

 

「その人」は「御国のことば」を『受け入れた』ので、「御国のことば」が「心に蒔かれたもの」になった、と言うことができると思います。

 

このように、「道ばたに落ちた」(上記冒頭4節)と言われている人は、「御国のことば」を『受け入れた』人である、と言うことができると思います。

 

また、「道ばたに落ちた」と言われている人だけではなく、「岩地に落ちた」(上記冒頭5節)と言われている人と、「いばらの*中に(直訳、上に)落ちた」(同7節)と言われている人も、「御国のことば」を『受け入れた』人である、と言うことができると思います。

 

「岩地に落ちた」(上記冒頭5節)と言われている人については、上記20節に、「・・・岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで『受け入れる』人のことです。」とあります。

 

「岩地に落ちた」と言われている人は、みことばを『受け入れた』人である、言うことができます。

 

その6、に続きます。