『新改訳聖書』第3版のルカの福音書24章38節と39節に、次のように書かれています。
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38節
すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
39節
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」*
* 異本に四〇節「イエスはこう言われて、その手と足を彼らにお示しになった」を加えるものもある
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また、ルカの福音書24章34節に、次のように書かれています。
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34節
「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
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この34節の記述より、38節と39節に書かれていることは、イエスがよみがえられた『あと』のことである、と言うことができると思います。
39節(上記冒頭)2行目から、「・・・霊ならこんな肉や骨はありません。・・・」とあります。
この言葉から、イエスは、『肉や骨』を持ってよみがえられた、と言うことができます。
使徒の働き13章34節に、次のように書かれています。
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34節
神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える』というように言われていました。
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1行目から、「神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや『朽ちることのない方』とされた・・・」とあります。
イエスは、『肉や骨』を持ってよみがえられた、と言うことができるのですが、その『肉や骨』は『朽ちることのない』もの、なのではないかと思われます。
つまり、『肉や骨』を持ってよみがえられた、と言っても、復活後のからだは、復活前のからだとは違うものであるのではないか、ということです。
コリント人への手紙 第一15章42節から44節までに、次のように書かれています。
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42節
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43節
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
44節
*血肉のからだで蒔かれ、**御霊(みたま)に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊(みたま)のからだもあるのです。
* 別訳「生まれながらのからだ」
** 別訳「霊のからだ」
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42節に、「・・・朽ちないものによみがえらされ、」とあり、44節に、「・・・**御霊(みたま)に属するからだ(別訳、霊のからだ)によみがえらされるのです。・・・」とあります。
使徒の働き13章34節(上記中ほど)に、「神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされた・・・」とあります。
その3、に続きます。