「神の子」について その4

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書3章16節と17節(いずれも、その2冒頭)に、次のように書かれています。
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16節
こうして、イエスバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊(みたま)が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
17節
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
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また、ローマ人への手紙8章15節(その2中ほど)に、次のように書かれています。
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15節
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊(みたま)を受けたのです。私たちは御霊(みたま)によって、「アバ、父」と呼びます。
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「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17、上記冒頭)とあるので、イエスは「神の子」になられた、と言うことができると思います。

 

この声が聞こえたのは、「神の御霊(みたま)が鳩のように下って、自分の上に来られ」たときです。

 

エスがよみがえられたときではありません。

 

つまり、「もはや朽ちることのない方とされた」ときではありません。

 

「神の御霊(みたま)が鳩のように下って、自分の上に来られ」たときは、「神の子」とされることが、「神の御霊(みたま)」によって、いわば、『保証された』、ということではないかと思われます。

 

言い換えると、実際に「神の子」とされるのは、よみがえられたときであり、「もはや朽ちることのない方とされた」ときである、ということです。

 

同じように、「私たち」が「子としてくださる御霊(みたま)を受けた」(ローマ8:15、上記)というのは、「神の子」とされることが、「神の御霊(みたま)」によって、いわば、『保証された』、ということではないでしょうか。

 

「神の子」とされること、あるいは、「神の子」として生まれることは、イエスがよみがえられたときに実現したと考えられるのですが、同じように、「私たち」が「神の子」とされること、あるいは、「神の子」として生まれることは、「私たち」がよみがえったときに実現すると考えられます。

 

エスはそのことの「初め」になられた、ということだと思います。

 

また、イエスが、「神の御霊(みたま)」によって「神の子」とされることを、いわば『保証された』ことは、「私たち」が神の「子としてくださる御霊(みたま)を受け」ることの「予型」と考えることができるのではないでしょうか。

 

『人』または『人の子』であるイエスが『神の子』とされたことによって、「私たち」『人』または『人の子』も、『神の子』とされる望みが生まれた、と言うことができるのではないでしょうか。

 

どのように思われますか。