「復活」について その3

新改訳聖書』第3版のルカの福音書24章39節(その2冒頭)と、使徒の働き13章34節(その2中ほど)の記述から、エスは、『肉や骨』を持ってよみがえられた、と言うことができますが、その『肉や骨』は『朽ちることのない』ものであるのではないか、と考えられます。

 

この『朽ちることのない』『肉や骨』が、「**御霊(みたま)に属するからだ(別訳、霊のからだ)」であるのかどうかについては、今のところ何とも言えません。

 

エスは、「霊ならこんな肉や骨はありません」(ルカ24:39、その2冒頭)と言われています。

 

この言葉から、「霊」ではない、と言うことはできると思います。

 

「霊」ではないが、「**御霊(みたま)に属するからだ(別訳、霊のからだ)」ではあるのかもしれません。これについては、今のところ何とも言えません。

 

わたしは以前、「復活」について その1(2020-11-27)、の最後の段落で、次のように述べました。

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まとめて言い換えると、「あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならない」使徒2:27)、というのは、「私のたましい」、すなわち「イエスのたましい」はハデスから救い出され、イエスの肉体に戻された、そしてイエスはよみがえり、その結果、「その肉体は朽ち果てない」(使徒2:31)ことになった、ということを意味している、と考えられると思いますが、いかがでしょうか。どのように思われますか。
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4行目から、『・・・「イエスのたましい」はハデスから救い出され、エスの肉体に戻された、・・・』とあります。

 

エスの肉体が墓の中になかったので、「イエスのたましい」は「イエスの肉体に戻された」、と考えられるのです。

 

ルカの福音書24章1節から3節までに、次のように書かれています。
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1節
週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
2節
見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
3節
入って見ると、主イエスのからだはなかった。
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墓の中に、「主イエスのからだはなかった」、ということが分かります。

 

「イエスのたましい」が「主イエスのからだ」に戻り、主イエスは「生きる方」となられたのではないか、と思われます。

 

そのからだは、死ぬ前のからだであるが、「もはや朽ちることのない」(使徒13:34、その2中ほど)からだに変えられたのではないか、と思われます。

 

このように、イエスの復活の場合は、イエスが死ぬ前の肉体がそのまま復活し、その肉体が朽ちることのないからだに変わった、ということになるのではないかと思われます。

 

これに対して、終わりの日の人々の復活の場合は、イエスの場合とは異なる、と言うことができると思います。

 

終わりの日の復活またはよみがえりについては、例えば、ヨハネの福音書6章39節と40節と44節と54節、および11章24節をご参照ください。

 

エスの場合と異なるのは、終わりの日の人々の復活の場合、遺体となった肉体はない、という点です。

 

遺体は朽ち果てて骨だけになっているか、あるいは、焼かれて骨だけになっているか、どちらかだと思います。

 

終わりの日の人々の復活の場合は、コリント人への手紙 第一15章44節(その2後半)にあるように、「**御霊(みたま)に属するからだ(別訳、霊のからだ)」に復活するものと思われます。

 

このような復活によって、「神の国を相続でき」(Ⅰコリ15:50)る、ということになると思います。

 

コリント人への手紙 第一15章50節に、次のように書かれています。
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50節
兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉の*からだ神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

 

* 直訳「血と肉」

 

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「血肉の*からだ(直訳、血と肉)」は「朽ちるもの」に当たり、「神の国」は「朽ちないもの」に当たる、と言うことができると思います。

 

エスの場合、『肉や骨』を持ってよみがえられた(ルカ24:39、その2冒頭)のですが、それには、何か意味があるのでしょうか。

 

あるとすると、どんな意味があると考えられるでしょうか。

 

その4、に続きます。