「復活」について その4

新改訳聖書』第3版のルカの福音書24章39節(その2冒頭)に、次のように書かれています。
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39節
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」*

 

* 異本に四〇節「イエスはこう言われて、その手と足を彼らにお示しになった」を加えるものもある

 

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2行目から、「・・・霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。・・・」とあります。

 

この言葉から、イエスは、「肉や骨」を持ってよみがえられた、と言うことができます。

 

終わりの日に、人々がよみがえるときには、「朽ちないもの」によみがえる、と考えられます。コリント人への手紙 第一15章42節(その2後半)をご参照ください。

 

そしてその「朽ちないもの」というのは、「御霊(みたま)に属するからだ(別訳、霊のからだ)」のことと思われます。コリント人への手紙 第一15章44節(その2後半)をご参照ください。

 

エスは、「肉や骨」を持ってよみがえられた、と言うことができますが、これには何か意味があると考えられるでしょうか。

 

あるとすると、どんな意味があると考えられるでしょうか。

 

二つのことが思い浮かびます。

① 「変えられる」ことの「予型」。

② 「イスラエルの全家」の復活の「予型」。

この二つです。

 

①については、コリント人への手紙 第一15章51節に、次のように書かれています。
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51節
*聞きなさい。私はあなたがたに奥義(おくぎ)を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。

 

* 直訳「見よ」

 

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2行目から、「・・・私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。」とあります。

 

この場合、「眠ることになるのではない」ので、肉体は死んで朽ち果てることはない、と言うことができます。

 

つまり、イエスの復活の場合と同じで、からだは今までのままです。

 

そしてイエスの復活の場合と同様、「朽ちない」からだになると考えられます。

 

コリント人への手紙 第一15章51節に続いて、52節に、次のように書かれています。
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52節
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
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1行目から、「・・・ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」とあります。

 

「死者は朽ちないものによみがえ」るのですが、「私たち」は、「朽ちないもの」に『変えられる』、ということだと思います。

 

エスの場合と違うのは、イエスは一度死なれてから「もはや朽ちることのない方」(使徒13:34、その2中ほど)となられましたが、「私たち」の場合は、「眠ることになるのではなく」(Ⅰコリ15:51、上記)、すなわち、死ぬことなく「朽ちないもの」になる、という点です。

 

その5、に続きます。