「死」について その9

新改訳聖書』第3版の使徒の働き2章24節(その6、前半)の、「死の*苦しみ」の「苦しみ」が、もし「産まれる」あるいは「産む」ということに関係があるとすると、「産まれる」あるいは「産む」というのは、何を意味すると考えられるでしょうか。

 

これまで述べてきたことから、おそらく、お分かりになるかと思いますが、それは、『よみがえる』こと、です。

 

「キリストの復活」(2021-08-18の「その7」をご参照ください)です。

 

『よみがえる』というのは、血肉(けつにく)のからだが死んで、御霊(みたま)のからだが生まれること、と考えることができると思います。コリント人への手紙 第一15章44節をご参照ください。

 

言い換えると、「朽ちるもの」が死んで、「朽ちないもの」が生まれる、ということです。

 

『よみがえる』、というのは、「朽ちるもの」から「朽ちないもの」に新しく『産まれる』こと、と考えることができるのではないでしょうか。

 

もしそのように考えるならば、「死の苦しみから解き放って」使徒2:24)や、「死につながれている」(同)と言う場合の「死」というのは、十字架の上での「死」というよりは、『よみがえる』直前の、キリストであるイエスのたましいが、『ハデスに捨てて置かれ』たときの「死」のことではないかと思われるのです。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。

 

その10、に続きます。