ピリピ人への手紙2章6節について その11

岩波翻訳委員会訳1995のフィリピ人への手紙2章2節から5節まで、の文脈から、6節では、イエスの「謙虚な思い」について書かれているのではないか、と思われます。

 

そのイエスの「謙虚な思い」を表すものとして、「神と等しい」ことを『強奪と思わなかった』、という表現が用いられていると考えられるのです。

 

そしてまた、そのイエスの「謙虚な思い」を表すために、強奪と『思ったか思わなかったか』が話題になっていると考えられるのです。

 

フィリピ人への手紙2章6節のわたしの訳である、「神と等しい」ことを『強奪と思わなかった』、というのがイエスの「謙虚な思い」を表すものだとすると、それは、イエスがご自分を『高くすることはなかった』、ということを意味する、と考えることができると思います。

 

このように考えると、7節以降につながると思います。

 

つまり、「神と等しい」ことを『強奪と思わなかった』(6節)、すなわち、ご自分を『高くすることはなかった』、「むしろ己れ自身を空しくし」(7節)、「己れ自身を低くした」(8節)、という文脈になる、ということです。

 

7節以降については、改めて述べようと思います。

 

今回は6節に焦点を当てて、6節の内容について『解釈』を試みました。

 

それは、直訳と言ってよい「神と等しいことを強奪と思わなかった」(その1終わりのほう等)、というわたしの訳についての『解釈』です。

 

「神と等しいことを強奪と思わなかった」という訳自体は、文字通りに受け取ってよいと思います。

 

つまり、「神と等しいこと」はイエスにもともと備わっていたことであり、イエスはそれを強奪とは思わなかった、ということです。

 

「神と等しいことを強奪と思わなかった」(その1終わりのほう等)というのはどういうことか(その2終わりのほう、下から5段落目)、ですが、それは、イエスの「謙虚な思い」が言い表されたものであり、イエスがご自分を『高くすることはなかった』、ということを意味するものである、ということです。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。