ピリピ人への手紙2章6節について その4

「その1」第4段落の引用文の中に、フィリピ人への手紙2章6節のギリシャ語があります。

 

次のようになっています。

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ὃς(ホス) ἐν(エン) μορφῇ(モルフェーィ) θεοῦ(テウー) ὑπάρχων(ヒュパルコーン) 
οὐχ(ウ―ク) ἁρπαγμὸν(ハルパグモン) ἡγήσατο(ヘゲッサト) τὸ(ト) εἶναι(エイ―ナイ) ἴσα(イサ) θεῷ(テオーィ)
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これをわたしが訳しました。

 

次のようになります。
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そして彼は神の姿(または形)において存在したとしても、
神と等しいことを強奪と思わなかった
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この中に、「・・・彼は神の姿(または形)において存在した・・・」、とあります。

 

新改訳聖書』第3版のヨハネ福音書14章7節から9節までに、次のように書かれています。
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7節
あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
8節
ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9節
エスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
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7節2行目から、「・・・しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」とあり、9節3行目に、「・・・わたしを見た者は、父を見たのです。・・・」とあります。

 

「あなたがたは・・・『父を見た』」(7節)、ということが言われています。

 

エスは、「『わたしを見た者は、父を見た』のです」(9節)と言われています。

 

このことばから、イエスは『父の姿』をしている、と言うことができるのではないでしょうか。

 

ヨハネ福音書14章8節(上記)の、「主よ。私たちに父を見せてください。・・・」というピリポの言葉から、『父の姿』と言ってもそれは、外見のことではないと言うことができると思います。

 

ピリポはイエスの外見を見て、そこに外見としての『父の姿』を見ることはなかった、と言うことができるからです。

 

また、14章7節(上記)1行目から、「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。・・・」とあり、同章9節(上記)1行目から、「・・・ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。・・・」とあります。

 

「あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。」(9節)という言葉から、「わたし」を知っていて「わたし」を見たら、その人は、父をも知っていて、『父を見た』のである、と言うことができると思います。

 

14章7節や9節の言葉から、『父を見た』というのは、『イエスを知った』ということではないかと思われます。

 

そして、『イエスを知った』ということは、イエスが言われたことを聞き、イエスがなさったことを見た、ということではないかと思われます。

 

また、『父を見た』というのは、『父の姿』を見た、と言い換えることができるのではないかと思います。

 

「『わたしを見た者は、父を見た』のです」(9節)というのは、「わたしを見た者は、『父の姿』を見たのです」、ということではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 

その5、に続きます。