ピリピ人への手紙2章6節について その6

岩波翻訳委員会訳1995のフィリピ人への手紙2章3節と4節に、次のように書かれています。
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500203
なにごとをも党派心によってではなく、虚栄心によってでもなく、むしろ謙虚な思いによって互いを自分よりも優れた者と考え、
500204
おのおのが自分自身のこと〔ばかり〕にでなく、むしろ他人のことに[も]それぞれに注目しながら〔同じことを思い抱くためである〕。
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3節2行目から、「・・・むしろ謙虚な思いによって互いを自分よりも優れた者と考え、」とあります。

 

エスは、わたしは「神と等しい」、と明確に言われることはなかったと思われるのですが、それは、イエスには「謙虚な思い」があったからではないかと思われます。

 

エスがもし、わたしは「神と等しい」、と言われたとすると、どのような印象を受けるでしょうか。

 

傲慢、もしくは、傲慢なような印象を受けないでしょうか。

 

あるいは、高慢な印象を受けないでしょうか。

 

地上におられたときイエスは、女の人から産まれた肉のからだを持つ人、または人の子でした。

 

人であるイエスが、わたしは「神と等しい」、と言われたとすると、イエスは高いところからものを言われている、という印象を受けないでしょうか。

 

エスは、「『わたしを見た者』は、『父を見た』のです」(ヨハネ14:9、その4前半)というように言われました。

 

わたしは「神と等しい」、という言い方はされませんでした。

 

わたしは「神と等しい」、という言い方をされたのではなく、「『わたしを見た者』は、『父を見た』のです」(同上)と言われることによって、「神と等しい」ということを『暗に』示されたのではないかと思います。

 

それは、イエスが「謙虚な思い」を持っていたからだと思います。

 

岩波翻訳委員会訳1995フィリピ人への手紙2章3節(上記)の「謙虚な思いによって」は、『新改訳聖書』第3版のピリピ人への手紙2章3節では、「へりくだって」、となっています。

 

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書11章29節に、次のように書かれています。
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29節
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
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1行目に、「わたしは心優しく、へりくだっている・・・」とあります。

 

「わたし」というのは、11章25節の記述より、「イエスのこと、と言うことができます。

 

エスは、「へりくだっている」とご自分から言われています。

 

「へりくだっている」を言い換えると、「謙虚な思い」を持っている、と言うことができると思います。

 

その7、に続きます。