フィリピ人への手紙2章6節では、「神と等しい」ことを「強奪と『思ったか思わなかったか』」が話題になっている、と言うことができると思います。
「神と等しい」ことを「強奪と『思ったか思わなかったか』」について考える場合、参考になるのが、岩波翻訳委員会訳1995のフィリピ人への手紙2章2節から5節までの記述です。
岩波翻訳委員会訳1995のフィリピ人への手紙2章2節から5節までの記述については、「その6」から「その8」までをご参照ください。
これまで、「神と等しいことを強奪と思わなかった」というのはどういうことなのか、について考えて来ました。
イエスは「神と等しいこと」を強奪と思わなかった、という場合は、イエスの「謙虚な思い」がそこに表されていると思います。
それは、フィリピ人への手紙2章3節から5節までの記述(その7冒頭および前半)から言えると思います。
それに対して、仮に「強奪と思った」とすると、どうなるでしょうか。
「神と等しいこと」を無理やり奪い取ったと思った、ということになります。
そこには、「謙虚な思い」は感じられず、自分は強奪される相手よりも強い者だと思っている、という印象を受けます。
強奪する者は、強奪される者よりも強いのです。
傲慢さや高慢さが感じられないでしょうか。
また、「自分自身のこと〔ばかり〕に・・・注目」(フィリピ2:4、その6冒頭、及びその7前半もしくは中ほど)しているように感じられ、「他人のことに・・・注目しながら〔同じことを思い抱・・・〕」(同)いているようには感じられません。
「注目しながら」に当たるギリシャ語は、「σκοποῦντες
(スコプーンテス)」です。( )内は読み方ですが、多少違うかもしれません。
「σκοποῦντες(スコプーンテス)」は「σκοπεω
(スコぺオー)」の「現在分詞」です。
「σκοπεω(スコぺオー)」には、「目を注ぐ」「注視(観察)する」「(人または物に)注意する」「見守る」「心にかける」といった意味があります。『増補・改訂 新約ギリシャ語辞典 岩隈 直著』という辞典によります。
「注目しながら」は、例えば、「心にかけながら」と訳すこともできます。
仮に「神と等しいことを強奪と思った」と考えた場合、「他人のこと」を心にかけていると言えるでしょうか。
「自分自身のこと〔ばかり〕」を心にかけている、ということにならないでしょうか。
自分自身のために、無理やり奪い取った、ということにならないでしょうか。
イエスが「神の姿・・・において存在した」(6節、わたしの訳)ということは、「神と等しい」存在であった、ということを意味していると思います。
しかし、「神と等しい」と、ご自分から言われることはなかったと思います。
「『わたしを見た者』は、『父を見た』のです」(ヨハネ14:9、その4前半)と言われることによって、「神と等しい」ということを『暗に』示されたのだと思います。
イエスが「神と等しい」ということは、イエスが『父』から、すなわち、『神』から出て来られた、ということから言えると思います。「その9」をご参照ください。
フィリピ人への手紙2章2節(その7前半)に、「同じ愛を抱き、心を共にし、一つのことを思い抱きながら」、とあります。、
「強奪」するような者が、「いくらかでもキリストにある慰め」(フィリピ2:1、その7前半)があり、「いくらかでも愛の励まし」(同)があり、「いくらかでも霊の交わり」(同)があり、「いくらかでも愛の思いと憐れみ」(同)とがある者と、「同じ愛を抱き、心を共にし、一つのことを思い抱」(フィリピ2:2、その7前半)いている、と言えるでしょうか。
その11、に続きます。