『新改訳聖書』第3版のヨハネの福音書14章7節から9節まで(その4前半)の記述から、イエスは、ご自分が「神と等しい」ということはご存じであった、と考えられます。
しかし、ご自分から、わたしは「神と等しい」、と言われることはなかったと思われます。
イエスのことを「神と等しい」と言っているのは、イエス以外のほかの人です。「その8」11段落目以降をご参照ください。
『新改訳聖書』第3版のヨハネの福音書5章18節(その8後半)に、次のように書かれています。
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18節
このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。
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2行目から、「・・・イエスが・・・ご自身を神と等しくして・・・おられたからである。」とあります。
この言葉から、イエスは、ご自分が「神と等しい」ということは自覚しておられた、と言うことができると思います。
イエスは、ご自分が「神と等しい」ということをどのようにして獲得されたのでしょうか。
「強奪」によって、でしょうか。
ヨハネの福音書17章8節に、次のように書かれています。
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8節
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。
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2行目から、「・・・わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、・・・」とあります。
「あなた」というのは、17章1節の「父よ。時が来ました。・・・」の「父」のことです。
そうすると、「わたしが『あなた』から出て来た」は、「わたしが『父』から出て来た」、となります。
そして『父』は『神』であるので、「わたしが『父』から出て来た」は、「わたしが『神』から出て来た」、となります。『父』が『神』であることについては、「その5」をご参照ください。
イエスは『神』から出て来られたので、「神と等しい」のではないでしょうか。
『神』から出て来られたので「神と等しい」のであれば、それはもともと備わっていた、ということではないかと思います。
「強奪」によって獲得されたのではない、ということです。
フィリピ人への手紙2章6節で、「神と等しいこと」を『強奪したのかどうか』が話題になっていないのは、「神と等しいこと」はもともと備わっていたことだからではないかと思われます。
フィリピ人への手紙2章6節では、「神と等しい」ことを「強奪と『思ったか思わなかったか』」が話題になっています。
「神と等しいこと」はもともと備わっていることなので、それはすでにイエスにあることとして、その上で、それを「強奪と『思ったか思わなかったか』」、ということが話題になっている、ということです。
「神と等しい」ということは、イエスにもともと備わっていることであったので、フィリピ人への手紙2章6節では、「神と等しいこと」を『強奪したのかどうか』を話題にすることはなく、「神と等しい」ことを「強奪と『思ったか思わなかったか』」が、話題になっているのだと思います。
その10、に続きます。