ピリピ人への手紙2章6節について その9

新改訳聖書』第3版のヨハネ福音書14章7節から9節まで(その4前半)の記述から、イエスは、ご自分が「神と等しい」ということはご存じであった、と考えられます。

 

しかし、ご自分から、わたしは「神と等しい」、と言われることはなかったと思われます。

 

エスのことを「神と等しい」と言っているのは、イエス以外のほかの人です。「その8」11段落目以降をご参照ください。

 

新改訳聖書』第3版のヨハネ福音書5章18節(その8後半)に、次のように書かれています。
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18節
このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエス安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。
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2行目から、「・・・イエスが・・・ご自身を神と等しくして・・・おられたからである。」とあります。

 

この言葉から、イエスは、ご自分が「神と等しい」ということは自覚しておられた、と言うことができると思います。

 

エスは、ご自分が「神と等しい」ということをどのようにして獲得されたのでしょうか。

 

「強奪」によって、でしょうか。

 

ヨハネ福音書17章8節に、次のように書かれています。
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8節
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。
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2行目から、「・・・わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、・・・」とあります。

 

「あなた」というのは、17章1節の「父よ。時が来ました。・・・」の「父」のことです。

 

そうすると、「わたしが『あなた』から出て来た」は、「わたしが『父』から出て来た」、となります。

 

そして『父』は『神』であるので、「わたしが『父』から出て来た」は、「わたしが『神』から出て来た」、となります。『父』が『神』であることについては、「その5」をご参照ください。

 

エスは『神』から出て来られたので、「神と等しい」のではないでしょうか。

 

『神』から出て来られたので「神と等しい」のであれば、それはもともと備わっていた、ということではないかと思います。

 

「強奪」によって獲得されたのではない、ということです。

 

フィリピ人への手紙2章6節で、「神と等しいこと」を『強奪したのかどうか』が話題になっていないのは、「神と等しいこと」はもともと備わっていたことだからではないかと思われます。

 

フィリピ人への手紙2章6節では、「神と等しい」ことを「強奪と『思ったか思わなかったか』」が話題になっています。

 

「神と等しいこと」はもともと備わっていることなので、それはすでにイエスにあることとして、その上で、それを「強奪と『思ったか思わなかったか』」、ということが話題になっている、ということです。

 

「神と等しい」ということは、イエスにもともと備わっていることであったので、フィリピ人への手紙2章6節では、「神と等しいこと」を『強奪したのかどうか』を話題にすることはなく、「神と等しい」ことを「強奪と『思ったか思わなかったか』」が、話題になっているのだと思います。

 

その10、に続きます。