「主の日」について その12

新改訳聖書』第3版のヨエル書1章17節と18節に、次のように書かれています。
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17節
  穀物の種は土くれの下に干からび、
  倉は荒れすたれ、穴倉はこわされた。
  穀物がしなびたからだ。
18節
  ああ、なんと、家畜がうめいていることよ。
  牛の群れはさまよう。
  それに牧場(まきば)がないからだ。
  羊の群れも滅びる。
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17節に、「穀物の種は土くれの下に干からび・・・た。穀物がしなびたからだ。」とあります。

 

穀物の種が「干からび」たのは、水が無く、日が照るからではないでしょうか。

 

また、穀物が「しなびた」のも、水が無く、日が照るからではないでしょうか。

 

18節2行目から、「牛の群れはさまよう。それに牧場(まきば)がないからだ。」とあります。

 

これまでの文脈からすると、「それ」すなわち「牛の群れ」に「牧場(まきば)がない」、というのは、牛が食べる草がない、ということではないでしょうか。

 

水が無いので、草が生えないのではないか、と思われます。

 

上記冒頭17節に書かれていることは、『すでに起きたこと』と言うことができると思います。

 

「こわされ『た』」や、「しなび『た』」と書かれているからです。

 

それに対して、18節に書かれていることは、『今あること』と言うことができると思います。

 

「ああ、なんと、家畜がうめいて『いる』ことよ。」(18節1行目)というのは、『今あること』と読むことができます。


『今』家畜はうめいている、ということです。

 

「牛の群れはさまよう。」(18節2行目)も同様です。

 

これまで述べて来たことからすると、ヨエル書1章15節(その7、冒頭)から18節(上記冒頭)までに書かれていることは、「の日」のことではなく、「の日」が『近い』ときのことではないかと思われます。

 

の日」が『近い』ときに、1章12節にあるように、「ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、ざくろ、なつめやし、りんご、あらゆる野の木々は枯れ」、また同章17節にあるように、穀物の種は「干からび」、穀物は「しなび」、同章18節にあるように、家畜が「うめ」き、牛の群れは「さまよう」のだと思います。

 

「ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、ざくろ、なつめやし、りんご、あらゆる野の木々は枯れ」、穀物の種が「干からび」、穀物が「しなび」るのは、「の日」が『近い』ときのことであり、そのとき、『ききん』があるのではないか、ということを思わせます。

 

その13、に続きます。