「主の日」について その7

新改訳聖書』第3版のヨエル書1章15節に、次のように書かれています。
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15節
  ああ、その日よ。の日は近い。
  全能者からの破壊のように、その日が来る。
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1行目に、「・・・の日は近い。」とあります。

 

「近い」、とあるので、この時点では、「の日」はまだ来ていない、と言うことができます。

 

これを書いている人は、の日が近い時点にいて書いている、と言うことができると思います。

 

続いて、1章16節に、次のように書かれています。
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16節
  私たちの目の前で食物が断たれたではないか。
  私たちの神の宮から
  喜びも楽しみも消え失せたではないか。
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「私たちの目の前で食物が断たれたではないか。私たちの神の宮から喜びも楽しみも消え失せたではないか。」だから、「の日は近い。」(15節、上記冒頭)という文脈になるのではないでしょうか。

 

16節1行目に、「私たちの目の前で食物が断たれ『た』・・・」とあります。つまり、の日が近い時点で、すでに起きたこととして言われています。

 

ヨエル書1章6節と7節に、次のように書かれています。
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6節
  一つの国民がわたしの国に攻め上(のぼ)った。
  力強く、数えきれない国民だ。
  その歯は雄獅子の歯、
  それには雄獅子のきばがある。
7節
  それはわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ、
  わたしのいちじくの木を引き裂き、
  これをまる裸に引きむいて投げ倒し、
  その枝々を白くした。
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6節1行目に、「・・・攻め上(のぼ)っ『た』。」とあり、7節最後の行に、「・・・白くし『た』。」とあります。

 

この二つの節に書かれていることも、すでに起きたこととして言われています。

 

7節1行目の、「それは」の「それ」というのは、「一つの国民」(6節、1行目)のこと、「力強く、数えきれない国民」(6節、2行目)のこと、と言うことができると思います。

 

7節は、「一つの国民」、「力強く、数えきれない国民」はわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ、わたしのいちじくの木を引き裂き、これをまる裸に引きむいて投げ倒し、その枝々を白くした、となります。

 

その8、に続きます。