「前兆」について その5

わたしは、「前兆」について その4、で、「産みの苦しみの『初め』」について述べました。

 

では、『産みの苦しみ』については、どうでしょうか。それは、どこに書かれていると考えられるでしょうか。

 

マタイの福音書24章15節から21節までに、次のように書かれています。
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15節
それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべきもの』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
16節
そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
17節
屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
18節
畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
19節
だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
20節
ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。
21節
そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
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21節冒頭に、「そのときには・・・」とあります。

 

「そのとき」というのは、19節の「・・・その日・・・」、および、16節の「そのとき・・・」と同じで、「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべきもの』が、聖なる所に立つのを見た」(15節)ときのこと、と言うことができると思います。

 

21節に、「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難がある・・・」とあります。

 

つまり、「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべきもの』が、聖なる所に立つのを見た」(15節)ときには、「世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難がある」、ということです。

 

そしてこの『ひどい苦難』が、『産みの苦しみ』に当たるのではないかと思います。

 

上で、15節から21節までを引用しましたが、それに続く、22節から24節までと、26節に書かれていることも、『産みの苦しみ』のときのことではないかと思います。

 

27節から29節までに書かれていることは、『産みの苦しみ』に関しては、それに含めてよいのかどうかは、微妙なところのように思えます。

 

27節と28節は、「人の子の来る」ときのことと考えられるので、『産みの苦しみ』のときのことかについては、判断しにくいものがあります。

 

今のところ、『産みの苦しみ』のあとの、『産まれる』ときのことではないかと考えています。

 

29節も同様です。

 

24章15節から26節まで(25節を除く)に書かれていることは、『産みの苦しみ』のときのことである、と言ってよいと思います。

 

そしてその、24章15節から26節まで(25節を除く)に書かれていることは、マタイの福音書24章30節の、「・・・人の子が・・・来る」『前』のことであり、また、同書24章3節(その1冒頭)の、「あなたの来られる時」の『前』のこと、すなわち、『前兆』のときのことである、と言うことができると思います。

 

『産みの苦しみ』の『産み』は、「あなたの来られる時」(24章3節、その1冒頭)にあるのではないか、と思います。

 

『前兆』のあとに、「あなた」は「来られ」、そして「あなた」が「来られ」たときに、『産まれる』のではないか、ということです。

 

『前兆』のときには、「産みの苦しみの『初め』」と、『産みの苦しみ』がある、ということになります。

 

『産みの苦しみ』のあとに、『産まれる』、と考えられます。

 

現時点では、以上述べたように、マタイの福音書24章15節から26節まで(25節を除く)に書かれていることが、『産みの苦しみ』に当たるときのことではないか、と考えています。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。