「前兆」について その3

新改訳聖書』第3版のルカの福音書17章30節から37節までに、次のように書かれています。
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30節
人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。
31節
その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。
32節
ロトの妻を思い出しなさい。
33節
自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
34節
あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。
35節
女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。*

 

* 異本に三六節として「ふたりの男が畑にいると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます」を加えるものもある。参マタ二四・四〇

 

37節
弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」
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37節1行目に、『弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」・・・』とあります。

 

「どこでですか」というのは、34節と35節に書かれていることがあるのは、「どこでですか」ということだと思います。

 

あるいは、31節から35節までに書かれていることがあるのは、「どこでですか」と考えてもよいと思います。

 

そして、34節と35節に書かれていることがあるのは、30節の、「人の子の現れる日・・・」のこと、と言うことができると思います。

 

つまり、34節と35節に書かれていることがあるのは「どこでですか」と言うと、それは、「死体のある所」(37節、上記)で、「そこに、はげたかも集まります」(同)、ということです。

 

そして、死体のある所に、はげたかが集まるのは、「人の子の現れる日」(ルカ17:30、上記冒頭)のことである、ということです。

 

引用されたルカの福音書17章(上記)には、マタイの福音書24章28節(その2後半)に書かれていることと、同じことが書かれています。

 

上記ルカの福音書17章30節から37節までの記述が「人の子の現れる日」(ルカ17:30、上記冒頭)のことである、言い換えると、「人の子の来る」(マタイ24:27、その2中ほど)ときのことである、ということより、マタイの福音書24章28節(その2後半)に書かれていることは、『前兆』のときのことではない、と言うことができると思います。

 

以上述べて来たように、『前兆』については、マタイの福音書24章30節より前に書かれていると考えられるのですが、同章27節と28節は、「人の子の来る」(マタイ24:27、その2中ほど)ときのこと、言い換えると、「人の子の現れる日」(ルカ17:30、上記冒頭)のことと言うことができると思われるので、『前兆』のときのことではない、ということです。

 

その4、に続きます。