『新改訳聖書』第3版のマタイの福音書25章1節と2節に、次のように書かれています。
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1節
そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
2節
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
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「天の御国」が「十人の娘」にたとえられています。2節に、「そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。」とあります。
このたとえからすると、半分は「愚かな」娘で、半分は「賢い」娘である、と言うことができます。「天の御国」は、半分は「愚かな娘」から成り、半分は「賢い娘」から成る、と考えられます。
マタイの福音書24章37節から41節までに、次のように書かれています。
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37節
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
38節
洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
39節
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らは*わからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
* 直訳「知らなかった」
40節
そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
41節
ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
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40節に、「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」とあり、41節に、「ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」とあります。
つまり、半分は「取られ」、半分は「残される」、ということです。
25章1節(上記、冒頭)と2節に書かれていることからすると、24章40節と41節に書かれていることは、「天の御国」のことではないか、という考えが浮かびます。
言い換えると、『しもべ』についてのことではないか、と考えられます。
「取られる」のは「忠実な賢い『しもべ』」で、「残される」のは「悪い『しもべ』」ではないでしょうか。
その14、に続きます。