エレミヤ書50章について その6

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章4節と5節に、次のように書かれています。
***
4節
その日、その時、―の御(み)告げ―
イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、を、尋ね求める。
5節
彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて、『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、に連なろう』と言う。
***

 

エレミヤ書50章3節(その1及びその5冒頭)に、「・・・人間から家畜に至るまで逃げ去った・・・」、とあります。

 

「人間から家畜に至るまで逃げ去った」、とあって、上記冒頭の4節があります。

 

4節に、「その日、その時、・・・イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、を、尋ね求める。」とあります。

 

3節からの文脈の中で考えると、バビロンから逃げ去った人々の中には、「イスラエルの民もユダの民も」いる、と考えられます。

 

3節からの文脈からすると、「イスラエルの民もユダの民も」(4節)バビロンから逃げ去った人々である、と考えられるのです。

 

「逃げ去った」あとに、「泣きながら歩み、その神、を、尋ね求める」、ということになると思います。

 

そして、「イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、を、尋ね求め」て、「彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて、『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、に連なろう』と言う」(5節)、ということになるのだと思います。

 

イスラエルの民もユダの民も・・・その神、を、尋ね求める」とあるので、彼らは「その神、」に立ち返るものと考えられます。

 

5節に、「彼らは・・・『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、に連なろう』と言う。」とあります。

 

「彼ら」というのは、4節の「イスラエルの民」と「ユダの民」のこと、と言うことができます。

 

「『・・・忘れられることのないとこしえの契約によって、に連なろう』と言う」とあるので、「彼ら」は「忘れられることのないとこしえの契約」を知っている、と言うことができます。

 

「忘れられることのないとこしえの契約」というのは、どのような契約のことであると考えられるでしょうか。

 

いわゆる「旧約」のことでしょうか、それとも、いわゆる「新約」のことでしょうか。

 

あるいは、そのどちらでもないものでしょうか。

 

その7、に続きます。

エレミヤ書50章について その5

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章1節から3節までに、次のように書かれています。
***
1節
預言者エレミヤを通して、バビロンについて、すなわちカルデヤ人の国について語られたみことば。
2節
  「諸国の民の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。
  隠さずに言え。
  『バビロンは捕らえられた。
  ベルははずかしめられ、
  メロダクは砕かれた。
  その像ははずかしめられ、
  その偶像は砕かれた。』
3節
なぜなら、北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたからだ。ここには住む者もない。人間から家畜に至るまで逃げ去った。
***

 

3節2行目から、「・・・人間から家畜に至るまで逃げ去った。」とあります。

 

「逃げ去った」という言葉から、3節に書かれていることは、エズラ記の時代に捕囚の民が帰還したときのことではない、と言うことができます。

 

捕囚の民が帰還したときには、バビロンから逃げて来たのではないからです。エズラ記1章をご参照ください。

 

3節には、「逃げ去っ『た』」とあるので、ここは、すでに終わったこと、または過去のこととして言われています。

 

この部分だけではなく、2節と3節は、すでに終わったこと、または過去のこととして言われています。

 

エレミヤ書50章8節から10節までに、次のように書かれています。
***
8節
  バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ。
  群れの先頭に立つやぎのようになれ。
9節
  見よ。わたしが、大国の集団を奮い立たせて、
  北の地からバビロンに攻め上らせる。
  彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、
  これを攻め取る。
  彼らの矢は、練達の勇士の矢のようで、
  むなしくは帰らない。
10節
  カルデヤは略奪され、
  これを略奪する者はみな満ち足りる。
  ―の御(み)告げ―
***

 

8節に、「バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ。・・・」とあります。

 

3節に書かれていることとは違って、ここでは、「逃げ・・・『よ』」と言われています。

 

ここではまだ、「バビロンの中から逃げ」去ってはいません。

 

「バビロンの中から逃げ・・・『よ』」(8節)と言われているので「逃げ去っ『た』」(3節)、つまり、神のことばが成就した、と考えることができます。

 

その場合、「逃げ去った」(3節)者は神のことばに従った、と言うことができると思います。

 

ところで、「バビロンの中から逃げ・・・よ」と言われているのは、どうしてであると考えられるでしょうか。

 

9節1行目から、「見よ。わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせる。・・・」とあります。

 

続いて、9節3行目から、「彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、これを攻め取る。彼らの矢は、練達(れんたつ)の勇士の矢のようで、むなしくは帰らない。」とあります。

 

つまり、「わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせ」、「彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、これを攻め取」り、「彼らの矢は、練達(れんたつ)の勇士の矢のようで、むなしくは帰らない」ので、「バビロンの中から逃げ・・・よ」と言われているのではないでしょうか。

 

そのように考えることはできると思います。

 

また、「わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせる」(9節)というのは、3節(上記冒頭)1行目の、「・・・北から一つの国がここに攻め上り・・・」のことである、と考えることができます。

 

「わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせる」ので、「北から一つの国がここ(すなわち、バビロン)に攻め上」る、と考えることができます。

 

「バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ」(8節)と言われているのは、「わたしが、大国の集団を奮い立たせて、北の地からバビロンに攻め上らせ」、「彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、これを攻め取」り、「彼らの矢は、練達(れんたつ)の勇士の矢のようで、むなしくは帰らない」からである、と考えられます。

 

また、「バビロンの中から逃げ・・・よ」(8節)と言われているので、「人間から家畜に至るまで逃げ去った」(3節)、と考えることができます。

 

その場合、「バビロンの中から逃げ・・・よ」という神のことばは成就した、と言うことができます。

 

その6、に続きます。

エレミヤ書50章について その4

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書51章62節(その3冒頭)に、次のように書かれています。
***
62節
よ。あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる、と語られました』と言い、
***

 

1149965208さんは、「人間から獣に至るまで住むものがないように」される、という預言は「ずっと後になって実現したことになります」、と理解されています。2024/1/15 19:20のご回答の最後の段落(その1中ほど)をご参照ください。

 

バビロニア帝国がメディア・ペルシャ帝国によって滅ぼされてから「ずっと後になって実現したことになります」、ということです。

 

そうすると、エレミヤ書51章62節(上記冒頭)の、「・・・これ(=この所、すなわちバビロン)を滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし・・・」の部分は、「滅ぼし」と「住むものがない」を切り離して読むことになります。

 

同じ時代のことではない、ということです。

 

1149965208さんによりますと、「滅ぼし」ということと、「住むものがない」ということとの間には、長い期間があります。

 

「滅ぼし」は「多くの歴史家(は)がそれがBC539であったとしてい」(2024/1/15 19:20のご回答の第2段落)る時代のことであり、一方、「住むものがない」は「4世紀くらい」(同ご回答の最後の段落、その1中ほど)以降の時代のことです。

 

1149965208さんによりますと、エレミヤ書51章62節(上記冒頭)の、「・・・これ(=この所、すなわちバビロン)を滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし・・・」の「滅ぼし」と「住むものがない」は、同じ時代のことではないのであり、それらの間には長い期間があるのです。

 

エレミヤ書51章62節をそのようなものとして読んでよいのだろうか、という疑問が残ります。

 

例えば、エレミヤ書51章62節に書かれていることは、同書50章3節(その1冒頭)に書かれていることとよく似ています。

 

エレミヤ書50章3節(その1冒頭)は、次のようになっています。
***
3節
なぜなら、北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたからだ。ここには住む者もない。人間から家畜に至るまで逃げ去った。
***

 

エレミヤ書51章62節(上記冒頭)に書かれていることのうち、「人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる」、の部分は、同書50章3節(上記、及びその1冒頭)に書かれている、「この地を荒れ果てさせたからだ。ここには住む者もない。人間から家畜に至るまで逃げ去った」、の部分と非常によく似ています。

 

違うのは、50章3節では、「獣」が「家畜」になっているという点と、「逃げ去った」という言葉が51章62節にはないという点と、51章62節にはある「永遠に」という言葉が50章3節にはない、という点です。

 

わたしは、この二つの節、すなわち、エレミヤ書50章3節と51章62節に書かれていることは、同じときのことであると考えています。

 

非常によく似ているからです。

 

50章3節に、「ここには住む者もない」とありますが、そのようになったのは、「その1」で述べたように、「北から一つの国がここに攻め上」ったからであると考えられます。

 

そのように読む場合は、「滅ぼし」(50章3節では「この地を荒れ果てさせた」が「滅ぼし」に当たると考えます)と「住む者もない」は、『同じとき』のことになります。

 

あくまでも、それらの二つの節に書かれていることが同じときのことであるという前提のもとで、ですが、50章3節をそのように読むとすると、51章62節の場合も、『同じとき』のこととして読むことになります。

 

エレミヤ書51章62節(上記冒頭)の、「滅ぼし」と「住むものがない」は、『同じとき』のことである、ということです。

 

しかし、エレミヤ書51章62節(上記冒頭)の、「滅ぼし」と「住むものがない」を切り離して、すなわち『同じとき』のことではない、ものとして読むことはできると思います。

 

そうするとあとは、エレミヤ書50章と51章のほかの記述との関連ではどうなるのか、ということになると思います。

 

その5、に続きます。

エレミヤ書50章について その3

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書51章62節(その2冒頭)に、次のように書かれています。
***
62節
よ。あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる、と語られました』と言い、
***

 

1行目から、「・・・あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、・・・」とあります。

 

「その2」で見たように、1149965208さんは、エレミヤ書50章と51章は、「全体的に『メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼす』こと・・・について」の預言であると理解されています。2024/1/15 19:20の1149965208さんのご回答の、第4段落(その2後半)をご参照ください。

 

その第4段落の3行目から、「・・・全体的にメディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼすこと『(51:11)』について預言していました。・・・」とあります。

 

エレミヤ書51章11節が挙げられています。

 

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書51章11節は、次のようになっています。
***
11節
  矢をとぎ、丸い小盾を取れ。
  はメディヤ人の王たちの霊を
  奮い立たせられた。
  主の御思いは、バビロンを滅ぼすこと。
  それはの復讐、その宮のための復讐である。
***

 

この節を見ると、『メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼす』ことについての預言である、と読むことができるかのように見えます。

 

しかし2行目から、「はメディヤ人の王『たち』の霊を奮い立たせられた。・・・」とあります。

 

もしこの11節が、『メディア・ペルシャ帝国がバビロニア国を滅ぼす』ことについての預言であるとすると、そのときのメディヤ人の王は『ダリヨス』である、と言うことができると思います。ダニエル書5章31節をご参照ください。

 

もしそうだとすると、「はメディヤ人の『王』・・・の霊を奮い立たせられた」ということになり、「メディヤ人の『王たち』の霊を奮い立たせられた」ということにはならない、と言うことができます。

 

「メディヤ人の王たち」というのを、「メディア・ペルシャ国」の『王たち』と考えて、『ダリヨス』と『クロス』のことと考えることはできるだろうか、ということになります。

 

聖書では、『クロス』をエズラ記1章1節では「ペルシアの王」と言い、ダニエル書6章28節では「ペルシア人」と言っています。

 

一般財団法人日本聖書協会の聖書本文検索で、「キュロス」を検索した結果、キュロスが「メディヤ人の王」として記述されている箇所はありませんでした。

 

ペルシア人キュロス」「ペルシアの王キュロス」「バビロンの王キュロス」とあります。

 

「メディヤ人の王キュロス」というのはありませんでした。

 

クロス(新共同訳ではキュロス)はメディヤ人との関係があったとしても、『王』としては『ペルシャ人』である、と言うことができると思います。

 

ですから、『クロス』を、エレミヤ書51章11節の「メディヤ人の『王たち』」の中に含めてよいのかは疑問です。

 

わたしとしては、含めることはできないと思います。

 

詩篇12篇6節に、「のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」とあるように、「のみことば」は何度もためされた上でのことばである、と言うことができます。

 

のみことばは、何度もためされた上で用いられたことばです。

 

神が、『クロス』のことを、メディヤ人の王ではなく、『ペルシアの王』(エズラ1:1など)として聖書に記されたのも、「七回もためされ」た上で用いられたことばであると思います。

 

ですから、『クロス』を「メディヤ人の『王たち』」(エレミヤ51:11)の中に含めるのはどうかと思います。

 

いかがでしょうか。

 

その4、に続きます。

エレミヤ書50章について その2

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書51章62節には、次のように書かれています。
***
62節
よ。あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる、と語られました』と言い、
***

 

この62節の記述から、「この所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てさせる」、とは語られた、と言うことができます。

 

「この所」というのは、「バビロン」(61節など)のことです。

 

1行目から、「よ。あなたはこの所(すなわち、バビロン)について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、・・・」とあります。

 

この記述から、は、「この所」すなわち「バビロン」に「人間から獣に至るまで住むものがないように」される、と言うことができます。

 

1149965208さんは、この「人間から獣に至るまで住むものがないように」される、という預言は「ずっと後になって実現したことになります」、と理解されています。2024/1/15 19:20のご回答の最後の段落(その1中ほど)をご参照ください。

 

その段落の最後で、「ですからエレミヤ51:52(62節だと思います)は、ずっと後になって実現したことになります」、とおっしゃっています。

 

「ずっと後になって」というのは、「バビロニア帝国が滅」んてからずっと後になって、ということです。2024/1/15 19:20の1149965208さんのご回答の第5段落、第6段落、および最後の段落(その1中ほど)、すなわち第7段落をご参照ください。

 

1149965208さんは、「人間から獣に至るまで住むものがないように」なるという預言は、「4世紀くらい」以降に実現したと理解されている、と言うことができます。2024/1/15 19:20のご回答の最後の段落(その1中ほど)をご参照ください。

 

つまり、1149965208さんは、エレミヤ書51章の預言は、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺されたときの預言であると理解されている、ということです。

 

2024/1/15 19:20の1149965208さんのご回答の、第4段落では、エレミヤ書51章だけではなく、50章の預言も、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺されたときの預言であると理解されている、ということが分かります。

 

その第4段落は、次のようになっています。
***
さてそれより70年ほど前(これはエルサレムの荒廃が70年だったという前提に基づいています。それよりもっと短かったという説もあります。)にエルサレムで活動していたエレミヤが書いたエレミヤ書の50章と51章の内容は、全体的にメディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼすこと(51:11)について預言していました。特に50:38や51:36は、上のヘロドトスが書いたメディア・ペルシャ連合軍の川を干上がらせる戦略について預言していると言われています。
***

 

1行目から、「さてそれより70年ほど前・・・にエルサレム活動していたエレミヤが書いたエレミヤ書の『50章と51章』の内容は、全体的にメディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼすこと(51:11)について預言していました。・・・」とあります。

 

「それより」というのは、「バビロニア帝国(一般の歴史では新バビロニア帝国」と呼ばれる)が一夜にして滅び」たときより、のことと言うことができると思います。2024/1/15 19:20の1149965208さんのご回答の第2段落をご参照ください。

 

第3段落では、バビロニア帝国(一般の歴史では「新バビロニア帝国」と呼ばれる)が滅んだときのことについて、ご説明を加えておられます。

 

つまり、「それより」というのは、第2段落と第3段落に書かれていることがあったときより、のことと言うことができます。

 

1149965208さんは、「エレミヤが書いたエレミヤ書の『50章と51章』の内容は、全体的に『メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼす』こと・・・について預言していました」、とおっしゃっています。

 

つまり1149965208さんは、エレミヤ書50章と51章は、「全体的に『メディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼす』こと・・・について」の預言である、と理解しておられるのです。

 

言い換えると、エレミヤ書50章と51章の預言は、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺されて、バビロンが滅んだときの預言であると理解されている、ということです。

 

しかし、エレミヤ書50章と51章の預言は、「全体的にメディア・ペルシャ帝国がバビロニア帝国を滅ぼすこと(51:11)について」の預言である、言い換えると、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺されてバビロンが滅んだときの預言である、と言えるのでしょうか。

 

その3、に続きます。

エレミヤ書50章について その1

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書50章1節から3節までに、次のように書かれています。
***
1節
預言者エレミヤを通して、バビロンについて、すなわちカルデヤ人の国について語られたみことば。
2節
   「諸国の民の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。
  隠さずに言え。
  『バビロンは捕らえられた。
  ベルははずかしめられ、
  メロダクは砕かれた。
  その像ははずかしめられ、
  その偶像は砕かれた。』
3節
なぜなら、北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたからだ。ここには住む者もない。人間から家畜に至るまで逃げ去った。
***

 

3節に、「なぜなら、北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたからだ。・・・」とあります。

 

2節と3節は、「北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたから」、『・・・ベルははずかしめられ、メロダクは砕かれた。その像ははずかしめられ、その偶像は砕かれた。』(2節)という文脈になると思います。

 

つまり、北から攻め上った一つの国がベルをはずかしめ、メロダクを砕き、その像をはずかしめ、その偶像を砕いた、ということです。

 

3節では、「『一つの国』が・・・この地を荒れ果てさせた」、ということが言われています。

 

そして、このことを、すなわち、北から攻め上った一つの国がバビロンを捕らえ、ベルをはずかしめ、メロダクを砕き、その像をはずかしめ、その偶像を砕いたということを、「諸国の民の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。隠さずに言え。」(2節)という文脈になる、と言うことができると思います。

 

「ここには住む者もない」(3節)、というのは、「人間から家畜に至るまで逃げ去った」から、と考えることができます。

 

そして、「人間から家畜に至るまで逃げ去った」のは、「北から一つの国がここに攻め上」ったからであると考えられます。

 

つまり、「ここには住む者もない」ようになったのは、「北から一つの国がここに攻め上」ったからである、ということです。

 

3節では、『北から攻め上った一つの国』が『この地を荒れ果てさせた』、ということが言われています。

 

「メロダクは砕かれた」(2節)や「その偶像は砕かれた」(同)、というのは、『この地を荒れ果てさせた』ことの一部であると考えることができると思います。

 

YAHOO!知恵袋でわたしは、2024/1/13 21:39に、バビロンについての質問をしました。

 

URLはこちらです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14291775664

 

そのわたしの質問に対して、1149965208さんが回答してくださいました。

 

2024/1/15 19:20のご回答の最後の段落で、1149965208さんは、
***
歴史上には詳しく書かれいませんが、一般にバビロンは4世紀くらいから人が徐々に住まなくなったと言われています。主な理由はユーフラテス川の流れが変わり、バビロンからかなり遠く(40キロ)くらい離れてしまったからです。水がなければ、都市として機能しません。今ではバビロンは乾いた半砂漠の中の廃墟です。ですからエレミヤ51:52は、ずっと後になって実現したことになります
***
とおっしゃっています。

 

バビロンに人が住まなくなったことについて述べておられます。

 

1行目から、「・・・一般にバビロンは4世紀くらいから人が徐々に住まなくなったと言われています・・・」、とあります。

 

1149965208さんは、2024/1/15 19:20のご回答の第5段落と第6段落で、次のようにおっしゃっています。
***
ただこの部分のすべてが、その時に実現(成就)したわけではありません。例えば51:52には、バビロンは人が住まなくなるとありますが、バビロニア帝国が滅びた後も、都市としてのバビロンは存在し続け、次のペルシャ帝国や、その次のアレキサンダー大王のギリシャ帝国(マケドニア帝国)も、バビロンを帝国内の重要都市として使い続けました。

 

1世紀にもバビロン地域には人が住んでいました。バビロンには大きなユダヤ人の共同体があり、使徒ペテロはバビロンのユダヤ人の間で伝道したと言われています。(ペテロ第一5:13)ユダヤ人の有名な「バビロニア・タルムード」も2-3世紀に書かれたと言われていますから、その時にもまだバビロンには人が住んでいました。
***

 

第5段落の2行目から、「・・・例えば51:52には、バビロンは人が住まなくなるとありますが、バビロニア帝国が滅びた後も、都市としてのバビロンは存在し続け、次のペルシャ帝国や、その次のアレキサンダー大王のギリシャ帝国(マケドニア帝国)も、バビロンを帝国内の重要都市として使い続けました。」とあります。

 

バビロニア帝国が滅びた後も」(第5段落3行目)というのは、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺されて、バビロンが滅んだあとも、と言い換えることができると思います。

 

つまり、ダニエル書5章30節にある、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺されたことのあとも、バビロンには人が住んでいた、ということです。

 

ちなみに、1149965208さんがおっしゃっておられる「エレミヤ51:52」というのは、「エレミヤ51:『62』」のことと思われます。

 

このように、1149965208さんによりますと、歴史上、「バビロニア帝国が滅びた後も、都市としてのバビロンは存在し続け、次のペルシャ帝国や、その次のアレキサンダー大王のギリシャ帝国(マケドニア帝国)も、バビロンを帝国内の重要都市として使い続けました」、ということです。

 

第6段落でも、「その時(すなわち、2-3世紀)にもまだバビロン・・・には人が住んでい・・・た」、とおっしゃっています。

 

つまり、カルデヤ人の王ベルシャツァルが殺され、それによってバビロンが滅んだあとも、バビロンには人が住んでいた、ということです。

 

その2、に続きます。

「天の御国」について その7

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書13章13節に、次のように書かれています。
***
13節
わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
***

 

「彼ら」というのは、2節の「・・・大ぜいの群衆・・・」のこと、と言うことができます。

 

マタイの福音書13章1節から3節までに、次のように書かれています。
***
1節
その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。
2節
すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。
3節
エスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。
  「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
***

 

3節の「彼ら」は「群衆」(2節2行目)であり、その「群衆」というのは、「大ぜいの群衆」(同1行目)のことです。

 

さらに、10節の「彼ら」と、11節の「彼ら」というのも、「大ぜいの群衆」のことであり、上記冒頭13節の「彼ら」もそうです。

 

マタイの福音書13章3節から8節までに、「たとえ」が書かれています。「種蒔きのたとえ」(13章18節、その4前半)です。

 

上記3節1行目に、「イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。」とあります。

 

これは、「イエスは多くのことを、(浜に立っていた)『大ぜいの群衆』にたとえで話して聞かされた。」となります。舟から話して聞かされた、ということです。

 

上記冒頭13節に、「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、『悟る』こともしないからです。」とあります。

 

マタイの福音書13章4節から7節まで(その5冒頭)の、①「道ばたに落ちた」と言われている人、②「岩地に落ちた」と言われている人、③「いばらの*中に(直訳、上に)落ちた」と言われている人が、この『悟る』こともしない人に当たるのではないでしょうか。

 

13章8節と23節(いずれも、その6後半)にあるように、『悟る』人であれば、実を結ぶ、と考えられます。

 

①から③までの人は、「種を蒔く人」(3節、上記およびその5冒頭)が種を「蒔いているとき」(4節、同)の人です。

 

13章4節(その5冒頭)に、「『蒔いているとき』、道ばたに落ちた種があった。・・・」とあります。

 

これは、「道ばたに落ちた」と言われている人のことですが、上記②と③の人も同じように、『蒔いているとき』の人、と言うことができます。

 

ところで、「種を蒔く人」(3節)というのは、誰のことであると考えられるでしょうか。

 

「その4」で述べたように、「種を蒔く人が種蒔きに出かけた」の『種』というのは、『御国のことば』のことと考えられます。

 

『種』が『御国のことば』であるとすると、「種を蒔く人」というのは、「『御国のことば』を蒔く人」のことになります。

 

『御国のことば』を蒔く、というのは、どういうことでしょうか。

 

『御国のことば』を宣べ伝える、ということではないでしょうか。

 

『御国のことば』を宣べ伝えるということだとすると、宣べ伝えるのは誰でしょうか。

 

『イエス』ではないでしょうか。

 

このように、「種を蒔く人」(3節、上記およびその5冒頭)というのは、『イエス』のことである、と考えられます。

 

その8、に続きます。