「天の御国」について その6

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書13章22節(その5中ほど)に、次のように書かれています。
***
22節
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この*世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。

 

* あるいは「時代」

 

***

 

1行目から、「・・・この*世の心づかいと富の惑わしとが『みことばをふさぐ』ため、実を結ばない人のことです。」とあります。

 

『みことばをふさぐ』というのは、『みことば』がその人の中にある、ということを意味すると思います。

 

さらに言いますと、『みことば』はその人の『心の中』にある、ということを意味すると思います。

 

『みことば』がその人の『心の中』にあって、「この*世の心づかいと富の惑わしとが『みことばをふさぐ』ため、実を結ばない」、ということだと思います。

 

『みことば』がその人の中に無ければ、『みことばをふさぐ』というのは、意味のないものになると思います。

 

このように、「いばらの*中に(直訳、上に)落ちた」(7節、その5冒頭)と言われている人については、『みことばをふさぐ』という言葉から、『みことば』はその人の中にある、さらに言いますと、その人の『心の中』にあると考えられます。

 

つまり、「いばらの*中に(直訳、上に)落ちた」と言われている人の場合も、みことばを『受け入れた』人である、ということです。

 

①「道ばたに落ちた」(4節、その5冒頭)と言われている人、および②「岩地に落ちた」(5節、同)と言われている人と同様に、③「いばらの*中に(直訳、上に)落ちた」(7節、同)と言われている人も、『みことば』を「受け入れた」と考えられるのです。

 

このように、①から③までの人は、『御国のことばを聞い』て、それを『受け入れた』人である、と言うことができると思います。

 

マタイの福音書13章8節に、次のように書かれています。
***
8節
  別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるもの

           は六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
***

 

また、マタイの福音書13章23節に、次のように書かれています。
***
23節
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。
***

 

この23節の記述から、「良い地に落ち」(8節)たと言われている人は、「みことばを聞いてそれを『悟る』人」である、と言うことができます。

 

その人は『悟る』人であって、「実を結」ぶ、ということが言われています。

 

「実を結」ぶ、というのはもちろん、『良い』「実を結」ぶ、ということです。

 

その7、に続きます。

「天の御国」について その5

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書13章3節から7節までに、次のように書かれています。
***
3節
エスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。
  「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4節
  蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると

          鳥が来て食べてしまった。
5節
  また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなか

           ったので、すぐに芽を出した。
6節
  しかし、日が上(のぼ)ると、焼けて、根がないため

           に枯れてしまった。
7節
  また、別の種はいばらの*中に落ちたが、いばらが伸

           びて、ふさいでしまった。

 

* 直訳「上に」

 

***

 

マタイの福音書13章19節(その4前半)の記述から、「蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった」(4節、その4冒頭)と言われている人は、「御国のことばを聞い」た人である、と言うことができます。

 

19節(その4前半)に、「御国のことばを『聞いて』も悟らないと、・・・」とあるからです。

 

また、「岩地に落ちた」(上記5節)と言われている人と、「いばらの*中に(直訳、上に)落ちた」(同7節)と言われている人も、「御国のことばを聞い」た人である、と言うことができます。

 

マタイの福音書13章20節に、次のように書かれています。
***
20節
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
***

 

1行目から、「また岩地に蒔かれるとは、『みことばを聞く』と、・・・」とあります。

 

「岩地に落ちた」(上記5節)と言われている人は、「みことばを聞い」た人である、と言うことができます。

 

マタイの福音書13章22節には、次のように書かれています。
***
22節
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この*世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。

 

* あるいは「時代」

 

***

 

1行目から、「また、いばらの中に蒔かれるとは、『みことばを聞く』が、・・・」とあります。

 

このように、「道ばたに落ちた」(上記冒頭4節)と言われている人だけではなく、「岩地に落ちた」(同5節)と言われている人と、「いばらの*中に(直訳、上に)落ちた」(同7節)と言われている人も、「御国のことばを聞い」た人である、と言うことができます。

 

「道ばたに落ちた」(上記冒頭4節)と言われている人については、「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行(い)きます」、と言われています。

 

「その人の心に蒔かれたもの」とあります。

 

「その4」で述べたように、「その人の心に蒔かれたもの」というのは、「道ばたに落ちた種」のことであり、それは、「御国のことば」のことであると考えられます。

 

「御国のことば」が「その人の心に蒔かれた」、と考えられるのです。

 

そうであるとすると、「その人」は「御国のことば」を『受け入れた』と言うことができるのではないでしょうか。

 

「その人」は「御国のことば」を『受け入れた』ので、「御国のことば」が「心に蒔かれたもの」になった、と言うことができると思います。

 

このように、「道ばたに落ちた」(上記冒頭4節)と言われている人は、「御国のことば」を『受け入れた』人である、と言うことができると思います。

 

また、「道ばたに落ちた」と言われている人だけではなく、「岩地に落ちた」(上記冒頭5節)と言われている人と、「いばらの*中に(直訳、上に)落ちた」(同7節)と言われている人も、「御国のことば」を『受け入れた』人である、と言うことができると思います。

 

「岩地に落ちた」(上記冒頭5節)と言われている人については、上記20節に、「・・・岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで『受け入れる』人のことです。」とあります。

 

「岩地に落ちた」と言われている人は、みことばを『受け入れた』人である、言うことができます。

 

その6、に続きます。

「天の御国」について その4

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書13章3節と4節に、次のように書かれています。
***
3節
エスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。
  「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4節
  蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると 

   鳥が来て食べてしまった。
***

 

4節1行目に、「蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。・・・」とあります。

 

マタイの福音書13章18節と19節に、次のように書かれています。
***
18節
ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
19節
御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行(い)きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
***

 

19節2行目から、「・・・道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。」とあります。

 

「このような人」というのは、前文の「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行(い)きます」と言われている「その人」のこと、と言うことができます。

 

「御国のことばを『聞いても』・・・」という言葉から、「その人」は「御国のことばを聞い」た人であることが分かります。

 

また、19節1行目から、「・・・悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行(い)きます。」とあります。

 

「その人の心に蒔かれたもの」とは、何であると考えられるでしょうか。

 

『蒔かれた』とあるので、それは、『種』であると考えられます。

 

上記冒頭4節1行目から、「・・・すると鳥が来て食べてしまった。」とあります。

 

「鳥が来て食べてしまった」ものは、「道ばたに落ちた種」です。

 

つまり、「鳥が来て『道ばたに落ちた種』を食べてしまった」、ということです。

 

「鳥が来て食べてしまった」は、上記19節の、「・・・悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行(い)きます・・・」に当たる、と言うことができると思います。

 

そうすると、「食べてしまった」は「奪って行(い)」ったということである、となります。

 

「奪って行(い)」ったのは、「その人の心に蒔かれたもの」です。

 

「鳥が来て食べてしまった」ものは、「道ばたに落ちた種」です。

 

そして、「食べてしまった」は「奪って行(い)」ったに当たる、と言うことができると思います。

 

そうすると、「道ばたに落ちた種」は、「その人の心に蒔かれたもの」に当たる、と言うことができます。

 

また、「蒔いているとき、道ばたに落ちた」は、「御国のことばを聞いても悟らない」に当たる、のではないでしょうか。

 

「道ばたに落ちた」が「聞いても悟らない」に当たるとすると、「蒔いている」種というのは、「御国のことば」のことに当たる、と言うことができると思います。

 

「蒔いている」種が「御国のことば」であるとすると、「道ばたに落ちた」種というのも、「御国のことば」のことになります。

 

上記冒頭3節2行目の、「種を蒔く人が種蒔きに出かけた」の「種」というのは、「御国のことば」のことと考えられます。

 

そして、「御国のことば」を聞いて、それを受け入れた人々が『御国の子どもたち』ではないか、と思われます。

 

その5、に続きます。

「天の御国」について その3

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書13章24節(その1⦅2021-01-21⦆冒頭)に、次のように書かれています。
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24節

エスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。
 「天の御国は、こういう人にたとえることができま

 す。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。

***

 

3行目に、「・・・ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。」とあります。

 

マタイの福音書13章37節と38節に、次のように書かれています。
***
37節
エスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
38節
畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
***

 

38節1行目から、「・・・良い種とは御国の子どもたち・・・のことです。」とあります。

 

そうすると、「良い種を蒔いた」(上記冒頭24節)は、「『御国の子どもたち』を蒔いた」、となります。

 

また、38節1行目から、「畑はこの世界のことで・・・す。」とあります。

 

そうすると、「自分の畑に良い種を蒔いた」(上記冒頭24節)は、「自分の『この世界』に『御国の子どもたち』を蒔いた」、となります。

 

『この世界』が「天の御国」である、と言うことはできないと思います。

 

「『この世界』に『御国の子どもたち』を蒔いた」というのは、どのように理解したらよいでしょうか。

 

上記冒頭24節の「ある人」というのは、「人の子」のことです。上記37節をご参照ください。

 

そして、「人の子」というのは、「イエス」のことと言うことができると思います。

 

「人の子」については、『「人の子」について』をご参照ください。「その1」が、2023-02-08に投稿されています。「その9」(2023-02-16)まであります。

 

「『この世界』に『御国の子どもたち』を蒔いた」というのは、『この世界』の人々に「御国のことば」(マタイ13:19)が宣べ伝えられた、ということではないしょうか。

 

つまり、「御国のことば」を聞いて、それを受け入れた人々が、『御国の子どもたち』である、ということです。

 

「『この世界』に『御国の子どもたち』を蒔いた」というのは、「御国のことば」を聞いて、それを受け入れた『御国の子どもたち』が、『この世界』にいるようになった、ということではないしょうか。

 

その4、に続きます。

「神の国」について その2

新改訳聖書』第3版のルカの福音書11章20節に、次のように書かれています。
***
20節
しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。
***

 

マタイの福音書12章28節(その1冒頭)に書かれていることと、ほぼ同じことが書かれています。

 

マタイの福音書で、「・・・神の御霊(みたま)によって・・・」となっているところが、ルカの福音書では、「・・・神の指によって・・・」となっています。

 

同様に、マタイの福音書で、「もう『神の国』はあなたがたのところに来ているのです。」は、ルカの福音書では、「『神の国』はあなたがたに来ているのです。」となっています。

 

ほぼ同じ、と言うことができます。

 

「神の御霊(みたま)によって」(マタイ)が、「神の指によって」(ルカ)となっているところを除けば、ほぼ同じと言ってよいと思います。

 

神の国』というのは、「その1」下から2段落目で述べたように、「イエス」の『うちにあるもの』のことであると考えられます。

 

それは、『義と平和と聖霊による喜び』です。

 

『義と平和と聖霊による喜び』であるなら、それは、「人の目で認められるようにして来るものでは(ありません)ない」(ルカ17:20、その1前半)と言うことができ、また、「『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものでは(ありません)ない」(ルカ17:21、その1前半)、と言うことができると思います。

 

「もう『神の国』はあなたがたのところに来ているのです」(マタイ)や、「『神の国』はあなたがたに来ているのです」(ルカ)というのは、『義と平和と聖霊による喜び』がイエスの『うちにあるもの』であり、イエスが「あなたがたのところ」にいるので、『神の国』は「あなたがたのところに来ているのです」、ということだと思います。

 

『義と平和と聖霊による喜び』がイエスの『うちにあるもの』であるなら、それは、「人の目で認められる」(ルカ17:20、その1前半)ことはない、と言うことができると思います。

 

エスの『うちにある』、『義と平和と聖霊による喜び』は「人の目」で見ることはできないのです。

 

ルカの福音書17章21節(その1前半)2行目からの、「・・・いいですか。『神の国』は、あなたがたのただ中にあるのです。」というのも、イエスが「あなたがたのただ中に」いるので、イエスの『うちにある』、『義と平和と聖霊による喜び』が「あなたがたのただ中にある」、ということだと思います。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。

「神の国」について その1

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書12章28節に、次のように書かれています。
***
28節
しかし、わたしが神の御霊(みたま)によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
***

 

2行目から、「・・・もう『神の国』はあなたがたのところに来ているのです。」とあります。

 

「『神の国』はあなたがたのところに来ている」というのは、どのようなことであると考えられるでしょうか。

 

ルカの福音書17章20節と21節に、次のように書かれています。
***
20節
さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
21節
『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。
***

 

20節2行目から、「・・・『神の国』は、人の目で認められるようにして来るものではありません。」とあります。

 

また、21節1行目から、「『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。・・・」とあります。

 

ローマ人への手紙14章17節に、次のように書かれています。
***
17節
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
***

 

1行目から、「なぜなら、神の国は・・・『義と平和と聖霊よる喜び』だからです。」とあります。

 

ルカの福音書17章20節(上記)に、「・・・神の国はいつ来るのか・・・」とありますが、神の国が来る、というのが、『義と平和と聖霊による喜び』が来る、ということだとすると、「人の目で認められるようにして来るものではありません」、と言うことができると思います。

 

また、「『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません」、と言うことができると思います。

 

『義と平和と聖霊による喜び』は、人の目で見えるものではないからです。

 

「『神の国』はあなたがたのところに来ている」というのは、どのようなことであると考えられるのか、と言いますと、それは、『義と平和と聖霊による喜び』があなたがたのところに来ている、ということであると考えられます。

 

そして、『義と平和と聖霊による喜び』がイエスのうちにあり、エスが「あなたがたのところ」にいるので、「もう神の国あなたがたのところに来ているのです」(マタイ12:28、上記冒頭)、ということだと思います。

 

その2、に続きます。

「神殿」について その37

新改訳聖書』第3版のヨハネの黙示録21章3節(その35冒頭)に、次のように書かれています。
***
3節
そのとき私は、御(み)座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、*

 

* 異本「また彼らの神となり」を加える

 

***

 

2行目から、「・・・神は彼ら(すなわち、人)とともに『住み』、・・・」、とあります。

 

エペソ人への手紙2章20節から22節までに、次のように書かれています。
***
20節
あなたがたは使徒預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
21節
この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
22節
このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊(みたま)によって神の御(み)住まいとなるのです。
***

 

「あなたがた」(20節)は「主にある聖なる『宮』となるのであり、・・・『神の御(み)住まい』となるのです。」(21節と22節)とあります。

 

「『宮』となる」は、言い換えると、『神殿』となるということである、と言うことができると思います。

 

「あなたがた」(20節)は『神殿』になるので『神が住まわれる』、すなわち、『神の御(み)住まい』となる、ということだと思います。

 

ヨハネの黙示録21章3節(上記冒頭)には、「神は彼ら『とともに』住み」とあります。

 

「あなたがた」、すなわち『人』が『神殿』になるので、「神は彼ら(すなわち、人)『とともに』住」まわれる、ということではないかと思われます。

 

エゼキエル書37章27節(その14前半)に、次のように書かれています。
***
27節
わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
***

 

「わたし(すなわち、神である主)の住まいは彼ら『とともに』あ・・・る。」とあります。

 

ヨハネの黙示録21章3節(上記冒頭)に、「神は彼ら『とともに』住み」、とあります。

 

表現は違いますが、内容は同じである、と言うことができると思います。

 

また、ヨハネの黙示録21章3節(上記冒頭)には、「・・・彼らはその(すなわち、神の)民となる。・・・」(下から2行目)とあります。

 

エゼキエル書37章27節(上記)2行目には、「・・・彼らはわたし(すなわち、神である主)の民となる。」とあります。

 

これも、内容は同じである、と言うことができると思います。

 

ただし、「彼ら」が同じものであるかどうかについては、もっと考える必要があると思います。

 

「彼ら」は、ヨハネの黙示録の方は『人』を指していますが、エゼキエル書の方は『イスラエル人』を指していると考えられます。

 

この『人』と『イスラエル人』とは同じものであるのか、ということです。

 

以上『神殿』について述べて来ました。

 

『神殿』というのは、ソロモンの神殿のような、文字通りの建物の神殿のことであるだけではなく、コリント人への手紙 第一3章16節と17節(その1冒頭)や、エペソ人への手紙2章20節から22節まで(上記、及びその2冒頭など)に書かれている「あなたがた」のような『人』の神殿のことでもある、と言うことができると思います。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。