「神の国」について その2

新改訳聖書』第3版のルカの福音書11章20節に、次のように書かれています。
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20節
しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。
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マタイの福音書12章28節(その1冒頭)に書かれていることと、ほぼ同じことが書かれています。

 

マタイの福音書で、「・・・神の御霊(みたま)によって・・・」となっているところが、ルカの福音書では、「・・・神の指によって・・・」となっています。

 

同様に、マタイの福音書で、「もう『神の国』はあなたがたのところに来ているのです。」は、ルカの福音書では、「『神の国』はあなたがたに来ているのです。」となっています。

 

ほぼ同じ、と言うことができます。

 

「神の御霊(みたま)によって」(マタイ)が、「神の指によって」(ルカ)となっているところを除けば、ほぼ同じと言ってよいと思います。

 

神の国』というのは、「その1」下から2段落目で述べたように、「イエス」の『うちにあるもの』のことであると考えられます。

 

それは、『義と平和と聖霊による喜び』です。

 

『義と平和と聖霊による喜び』であるなら、それは、「人の目で認められるようにして来るものでは(ありません)ない」(ルカ17:20、その1前半)と言うことができ、また、「『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものでは(ありません)ない」(ルカ17:21、その1前半)、と言うことができると思います。

 

「もう『神の国』はあなたがたのところに来ているのです」(マタイ)や、「『神の国』はあなたがたに来ているのです」(ルカ)というのは、『義と平和と聖霊による喜び』がイエスの『うちにあるもの』であり、イエスが「あなたがたのところ」にいるので、『神の国』は「あなたがたのところに来ているのです」、ということだと思います。

 

『義と平和と聖霊による喜び』がイエスの『うちにあるもの』であるなら、それは、「人の目で認められる」(ルカ17:20、その1前半)ことはない、と言うことができると思います。

 

エスの『うちにある』、『義と平和と聖霊による喜び』は「人の目」で見ることはできないのです。

 

ルカの福音書17章21節(その1前半)2行目からの、「・・・いいですか。『神の国』は、あなたがたのただ中にあるのです。」というのも、イエスが「あなたがたのただ中に」いるので、イエスの『うちにある』、『義と平和と聖霊による喜び』が「あなたがたのただ中にある」、ということだと思います。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。