「人の子」について その8

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書24章30節(その7中ほど、及びその6前半)の、「・・・人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて『天の雲に乗って来る』・・・」と、ヨハネ黙示録1章7節(その7冒頭)の、「見よ、彼が、『雲に乗って来られる』・・・」が、同じときのことだとすると、『人の子』(マタイ)は『彼』(黙示録)に当たる、ということになります。

 

そして、ヨハネの黙示録1章7節(その7冒頭)の『彼』は、イエス・キリスト』を指すと考えられるので、マタイの福音書24章30節の『人の子』は、『イエス・キリスト』のことと考えられる、ということになります。

 

さらに、マタイの福音書16章27節(その6冒頭)の、「人の子は『父の栄光を帯びて』、・・・やがて来ようとしている・・・」は、マタイの福音書24章30節(その7中ほど、及びその6前半)の、「・・・人の子が『大能と輝かしい栄光を帯びて』天の雲に乗って来る・・・」と同じことを言っていると思われます。「その6」をご参照ください。

 

それらが同じことを言っているとすると、16章27節(その6冒頭)の「人の子」と、24章30節(その7中ほど、及びその6前半)の「人の子」は同じである、ということになります。

 

そして、上(第二段落)で述べたように、マタイの福音書24章30節の『人の子』は、『イエス・キリスト』のことと考えられるので、マタイの福音書16章27節(その6冒頭)の『人の子』も、『イエス・キリスト』のことと考えられる、ということになります。

 

マタイの福音書24章3節(その6後半)で、『イエス』が来られる時のことについて語られ、また、ヨハネの黙示録1章7節(その7冒頭)で、『彼』が、すなわち『イエス・キリストが、雲に乗って来られる、ということについて語られています。

 

使徒の働き1章8節から11節までに、次のように書かれています。
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8節
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
9節
こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
10節
エスが上(のぼ)って行かれるとき、弟子たちは、天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
11節
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのエスは、天に上(のぼ)って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
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9節に、「・・・イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。」とあり、11節に、「ガリヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこの『イエスは、天に上(のぼ)って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります』。」とあります。

 

エスは、『上げられ、雲に包まれて』、見えなくなられました。(9節)


11節の、『イエスは、天に上(のぼ)って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります』というのは、『雲に包まれて』またおいでになります、のことと言うことができると思います。

 

『雲に包まれて』おいでになる、というのは、『雲に乗って』来られる、ということではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 

使徒の働き1章9節と11節の記述からも、『天の雲に乗って来る』のは、『イエス』である、と言うことができるのではないかと思います。

 

そしてこれが、マタイの福音書24章30節(その7中ほど、及びその6前半)の、『天の雲に乗って来る』と同じときのことだとすると、『人の子』というのは、『イエス』のことになります。

 

どのように思われますか。