「神殿」について その36

新改訳聖書』第3版のコリント人への手紙 第二5章4節(その34冒頭)に、次のように書かれています。
***
4節
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
***

 

3行目から、「・・・そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」とあります。

 

「そのことによって」というのは、「天からの住まいを着」ることによって、のことと言うことができると思います。

 

「天からの住まいを着」ることによって、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』、という流れになります。

 

そして、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』というのは、『生きる』ということであり、また『死ぬことがない』ということであると考えられます。

 

そうすると、もはや『死もない』(黙示録21:4、その35冒頭)というのは、「天からの住まいを着」たからではないか、と考えられます。

 

「天からの住まいを着」たというのは、「人の手によらない、『天にある永遠の家』」(Ⅱコリ5:1、その33冒頭)を着た、ということです。

 

もはや『死もない』という記述から、このときには、『死ぬべきものがいのちにのまれてしま』っていると考えられます。

 

つまり、このときには、『人』はすでに「天からの住まいを着」ている、ということです。

 

ヨハネの黙示録21章3節(その35冒頭)2行目に、「・・・神の幕屋が人とともにある。・・・」とあります。

 

「その29」の下から6段落目で述べたように、『神の幕屋』は『天にあった』幕屋であると考えられます。

 

『神の幕屋』が『天にあった』幕屋であるとすると、それは、コリント人への手紙 第二5章1節(その33冒頭)の、「人の手によらない、『天にある』永遠の家」を思わせます。

 

『神の幕屋』というのは、「人の手によらない、『天にある』永遠の家」のことではないかと思われますが、いかがでしょうか。

 

『神の幕屋』が「人の手によらない、『天にある』永遠の家」であるとすると、その「『天にある』永遠の家」を着た、は、『神の幕屋』を着た、ということになります。

 

「天からの住まいを着」ることによって、すなわち、「人の手によらない、『天にある』永遠の家」を着ることによって、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』、ということが言われています。コリント人への手紙 第二5章4節(上記冒頭)をご参照ください。

 

「人の手によらない、『天にある』永遠の家」を着た、というのが、『神の幕屋』を着た、ということであるとすると、『神の幕屋』を着たことによって、『死ぬべきものがいのちにのまれてしま』った、と言うことができます。

 

『神の幕屋』を着たことによって、『死ぬべきものがいのちにのまれてしま』ったので、もはや『死もない』(黙示録21:4、その35冒頭)、のではないでしょうか。

 

言い換えると、『神の幕屋』を着たことによって、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』、というみ言葉が成就したから、もはや『死もない』、ということではないでしょうか。

 

「神の幕屋が人とともにある」(黙示録21:3、その35冒頭)というのは、人が『神の幕屋を着ている』ということを意味しているのではないかと思われますが、いかがでしょうか。

 

どのように思われますか。

 

その37、に続きます。

「神殿」について その35

新改訳聖書』第3版のヨハネの黙示録21章3節と4節(いずれも、その29冒頭)に、次のように書かれています。
***
3節
そのとき私は、御(み)座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、*

 

* 異本「また彼らの神となり」を加える

 

4節
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
***

 

4節1行目から、「・・・もはや『死もな・・・い』。・・・」とあります。

 

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。」(3節と4節)と言われた後に、「もはや『死もな・・・い』」、ということが言われています。

 

「もはや『死もなく』、悲しみ、叫び、苦しみもない」のはなぜか、と言いますと、「以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」(4節)、となります。

 

「以前のものが、もはや過ぎ去ったから」、「もはや『死もなく』、悲しみ、叫び、苦しみもない」、という文脈になります。

 

『死もなく』というのは、『死もない』ということですが、それは、どのようことを意味していると考えられるでしょうか。

 

『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』(Ⅱコリ5:4、その34冒頭)というみ言葉が成就した、ということを意味しているのではないでしょうか。

 

『死ぬべきもの』というのは「以前のもの」である、と言うことができると思います。

 

『死ぬべきもの』が「過ぎ去ったから」、もはや『死もない』、と言えるのではないでしょうか。

 

そのように言えると思います。

 

ヨハネ福音書11章25節と26節(いずれも、その31冒頭)に、次のように書かれています。
***
25節
エスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
26節
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
***

 

26節1行目から、「・・・生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。・・・」とあります。

 

もはや『死もない』(黙示録21:4、上記冒頭)、と言われているのは、ヨハネの黙示録21章4節冒頭の「彼ら」についてのこと、と考えられます。

 

つまり、「彼ら」にはもはや『死もない』、ということです。

 

そして、21章4節冒頭の「彼ら」というのは、3節の3つの「彼ら」と同じで、3節2行目の、『人』のこと、と言うことができます。

 

もはや『死もない』、というのは、これらの『人』にはもはや『死もない』、ということだと思います。

 

そして、これらの『人』というのは、上記ヨハネ福音書11章26節の、『生きていてわたし(すなわち、イエス)を信じる者』のことではないか、と思われます。

 

さしあたり、そう思われます。

 

しかし、『わたし(すなわち、イエス)を信じる者』(11章25節)は、「死んでも生きる」と言われているので、『わたし(すなわち、イエス)を信じる者』についても、もはや『死もない』、ということになるのではないかと思われます。

 

「死んでも生きる」(上記ヨハネ11:25)と言われている者、また「決して死ぬことがありません」(上記ヨハネ11:26)と言われている者というのは、つまり、『永遠のいのち』を得た者のことではないでしょうか。

 

また、ヨハネの黙示録21章3節(上記冒頭)2行目からの、「神は彼ら(すなわち、人)とともに『住み』」、という言葉から、この場合の『人』というのは、『キリストにある者』のことであり、『御霊(みたま)による者』のことであると考えられます。エペソ人への手紙2章22節(その2冒頭、その23冒頭)をご参照ください。

 

『キリストにある者』というのは、『わたし(すなわち、イエス)を信じる者』(上記ヨハネ11:25)のことであり、『生きていてわたし(すなわち、イエス)を信じる者』(上記ヨハネ11:26)のことである、と言うことができると思います。

 

そして、『イエスを信じる者』には、『御霊(みたま)』が与えられます。

 

その36、に続きます。

「神殿」について その34

新改訳聖書』第3版のコリント人への手紙 第二5章4節(その32冒頭)と5節(その25冒頭)に、次のように書かれています。
***
4節
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
5節
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その*保証として御霊(みたま)を下さいました。

 

* あるいは「手付け金」

 

***

 

5節1行目に、「私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。」とあります。

 

「このこと」とは何でしょうか。

 

それは、4節4行目の、「・・・死ぬべきものがいのちにのまれてしまう・・・」こと、と言うことができます。

 

そうすると、「このことにかなう者」は、「『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』ことにかなう者」、となります。

 

「私たちをこのことにかなう者としてくださった」(5節)とあるので、「私たち」は、「『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』ことにかなう者」とされた(5節)、ということになります。

 

そして5節2行目に、「神は、その*保証(あるいは、手付け金)として御霊(みたま)を下さいました。」とあります。

 

「その保証」というのは、「私たち」が、「『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』ことにかなう者」とされた(5節)ことの「保証」のこと、と言うことができると思います。

 

つまり、「私たち」のうちに御霊(みたま)が住んでいるということは、「私たち」は、「『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』ことにかなう者」とされたことが「保証」された、ということです。

 

また、「その手付け金」というのは、「『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』ことにかなう者」とされたことに対して、「私たち」に支払われた「手付け金」のこと、と言うことができると思います。

 

「御霊(みたま)」が「手付け金」にたとえられています。

 

「手付け金」ですから、後に『買い取られる』ことが想定されます。

 

売主は「私たち」で、買主は「神」です。

 

つまり、まず「手付け金」として「御霊(みたま)」が与えられ、それが「保証」となって、「御霊(みたま)」が与えられた者は、後に「神」によって『買い取られる』、ということです。

 

『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』というのは、「その30」の下から10段落目の、「ところで、」から始まる段落以下と「その31」で述べたように、『死ぬべきもの』であっても、イエスを信じるなら、「死んでも『生きる』」ということであり、また「決して『死ぬことが(ありません)ない』」、ということであると考えられます。

 

「私たちをこのことにかなう者としてくださった」というのは、つまり、「私たち」は「死んでも『生きる』」ことにかなう者とされた、ということであり、また「決して『死ぬことが(ありません)ない』」ことにかなう者とされた、ということです。

 

「神は、その*保証(あるいは、手付け金)として御霊(みたま)を下さ」(上記冒頭5節)った、のです。

 

その35、に続きます。

「神殿」について その33

新改訳聖書』第3版のコリント人への手紙 第二5章1節(その30冒頭)に、次のように書かれています。
***
1節
私たちの*住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

 

* 直訳「地上の幕屋の家」

 

***

 

1行目から、「私たちの*住まいである地上の幕屋(直訳、地上の幕屋の家)がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。・・・」とあります。

 

「私たちの地上の幕屋の家がこわれ」る、というのは、どのようなことであると考えられるでしょうか。

 

はっきり書かれているわけではありませんが、これも、「この幕屋(すなわち、私たちの『地上の幕屋』)を脱」ぐと同じで、『死ぬ』ということであると考えられます。

 

『死ぬ』というのは、この場合、『地上での』いのちを終える、ということです。

 

「わたしを信じる者」(ヨハネ11:25、その31冒頭)、すなわち、「イエスを信じる者」は「死んでも『生きる』」(同上)、と言われています。

 

それは、『地上での』いのちを終えても、「イエスを信じる者」は「死んでも『生きる』」、ということです。

 

コリント人への手紙 第二5章1節(上記冒頭)1行目からの、「私たちの地上の幕屋の家がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。・・・」というのは、「私たち」が『地上での』いのちを終えても、「イエスを信じる者」には「神の下さる建物があることを、私たちは知っています。・・・」、という意味になると思います。

 

「神の下さる建物」というのは、「人の手によらない、天にある永遠の家」(上記冒頭1節)のことです。

 

そして、コリント人への手紙 第二5章2節(その30前半)には、「私たちは・・・この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。」とあります。

 

「この天から与えられる住まい」というのは、「人の手によらない、天にある永遠の家」(上記冒頭1節)のことです。

 

コリント人への手紙 第二5章4節(その32冒頭)には、「・・・そのこと(すなわち、天からの住まいを着ること)によって、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』・・・」とあります。

 

『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』については、「その30」の下から10段落目の、「ところで、」から始まる段落以下、および「その31」をご参照ください。

 

『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』、すなわち、「死んでも『生きる』」ので、「私たちは・・・この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます」(Ⅱコリ5:2、その30前半)、ということになるのだと思います。

 

コリント人への手紙 第二5章1節(上記冒頭)の、「私たちの地上の幕屋の家がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています・・・」というのは、『地上での』いのちを終えても、「神の下さる建物」を着ることができる、ということを「私たちは知っています・・・」、ということだと思います。

 

そして、「神の下さる建物」を着る、すなわち、「人の手によらない、天にある永遠の家」を着ることによって、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』ので、すなわち、「死んでも『生きる』」ので、「この天から与えられる住まいを着たいと望んでい(ます)る」、ということだと思います。

 

ヨハネの黙示録21章3節(その29冒頭)2行目の、『神の幕屋』というのは、「その29」下から6段落目で述べたように、『天にあった』幕屋のことであると考えられます。

 

『神の幕屋』が『天にあった』幕屋であるとすると、コリント人への手紙 第二5章1節(上記冒頭)の、「人の手によらない、『天にある』永遠の家」が思い浮かびます。

 

『神の幕屋』というのは、「人の手によらない、『天にある』永遠の家」のことではないか、と現時点では考えています。

 

ヨハネの黙示録21章3節(その29冒頭)2行目から、「・・・『神の幕屋』が人とともにある。『神は』彼ら(すなわち、人)とともに『住み』、彼らはその民となる。・・・」とあります。

 

神が人とともに『住む』ことができるのは、「『神の幕屋』が人とともにある」からであり、『人』が『神の幕屋』を着ているからではないかと思います。

 

『天にあった』と考えられる『神の幕屋』が、「人の手によらない、『天にある』永遠の家」(Ⅱコリ5:1、上記冒頭)であるとすると、「人の手によらない、『天にある』永遠の家」を着たい(Ⅱコリ5:2・4、その30)というのは、「『神の幕屋』を着たい」、ということになります。

 

その34、に続きます。

「神殿」について その32

新改訳聖書』第3版のコリント人への手紙 第二5章4節(その30中ほど)に、次のように書かれています。
***
4節
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
***

 

2行目に、「・・・この幕屋を脱ぎたいと思う・・・」とあります。

 

「この幕屋を脱ぎたいと思う」のは、「この幕屋」を着ているからですが、「この幕屋を脱」ぐ、というのは、どのようなことであると考えられるでしょうか。

 

ペテロの手紙 第二1章13節と14節に、次のように書かれています。
***
13節
私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。
14節
それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。
***

 

14節に、「それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。」とあります。

 

「それ」というのは、「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思ってい」ること、と言うことができると思います。

 

「これらのこと」というのは、ペテロの手紙 第二1章5節から7節までに書かれていることと考えられます。

 

すなわち、「(5節)・・・あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、(6節)知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、(7節)敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加え」ること、と考えられます。

 

「これらのことを思い起こさせる」(上記13節)は、「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えることを思い起こさせる」、となります。

 

「これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせる」(上記13節)ことができるのは、「私」が地上で『生きている』間です。

 

上記1章13節1行目の、「私が『地上の幕屋』にいる間は」というのは、「私」が地上で『生きている』間は、のことと言うことができます。

 

コリント人への手紙 第二5章4節(上記冒頭)の、「・・・この幕屋(すなわち、私たちの『地上の幕屋』)の中にいる間は・・・」も、「私たち」が地上で『生きている』間は、のことと言うことができると思います。

 

ペテロの手紙 第二1章13節と14節は、「私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているから」(14節)、「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。」(13節)という文脈になると思います。

 

少し簡単にすると、「私が『この幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っている』のを知っているから」(14節)、「『私が地上の幕屋にいる間は』、・・・あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。」(13節)となります。

 

『私が地上の幕屋にいる間は』というのが、「私」が地上で『生きている』間は、のことと言うことができるので、「私が『この幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っている』」というのは、「死期が迫っている」、ということを意味すると思います。

 

そうすると、『この幕屋を脱ぎ捨てる』、すなわち「『地上の幕屋』を脱ぎ捨てる」、というのは、地上で『死ぬ』ということである、と考えられます。

 

コリント人への手紙 第二5章4節(上記冒頭)の、「・・・この幕屋を脱ぎたいと思う・・・」の「この幕屋を脱」ぐ、も地上で『死ぬ』ということであると考えられます。

 

『死ぬ』というのは、この場合、『地上での』いのちを終える、ということです。

 

エスを信じる者は、「死んでも『生きる』」のであり、生きていてイエスを信じる者は、「決して『死ぬことが(ありません)ない』」のです。ヨハネ福音書11章25節と26節(いずれも、その31冒頭)をご参照ください。

 

その33、に続きます。

「神殿」について その31

新改訳聖書』第3版のヨハネ福音書11章25節と26節に、次のように書かれています。
***
25節
エスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
26節
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
***

 

25節1行目から、『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。『いのち』です。・・・』とあります。

 

「わたし」というのは、「イエス」のことですから、「わたしは・・・『いのち』です」は、「『イエス』は・・・『いのち』です」、となります。

 

ヨハネ福音書14章6節(その30終わりのほう)に書かれていることと同じことが言われています。

 

上記冒頭11章25節2行目に、「・・・わたしを信じる者は、死んでも『生きる』のです。」とあり、26節1行目から、「また、生きていてわたしを信じる者は、決して『死ぬことがありません』。・・・」とあります。

 

「いのちにのまれてしま」(Ⅱコリ5:4、その30中ほど)ったら、『いのちの中にいる』、ということになりますが、『イエス』が『いのち』であると言われているので、『いのちの中にいる』ということは、『イエスの中にいる』ということである、と言うことができると思います。

 

そして、「わたし(すなわち、イエス)を信じる者は、死んでも『生きる』のです」(25節2行目)と言われており、「また、生きていてわたしを信じる者は、決して『死ぬことがありません』」(26節1行目から)と言われています。

 

つまり、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』(Ⅱコリ5:4、その30中ほど)というのは、『死ぬべきもの』であっても、イエスを信じるなら、「死んでも『生きる』」ということであり、また「決して『死ぬことがありません』」ということである、ということです。

 

「いのちにのまれてしま」ったら、『いのちの中にいる』、ということになります。

 

そして、『いのちの中にいる』というのは、『イエスの中にいる』ということを意味し、『イエスの中にいる』のは、『イエスを信じる者』だから、です。

 

『イエスを信じる者』であれば、「死んでも『生きる』」のであり、「決して『死ぬことがありません』」ということになる、のです。

 

聖書によると、そのようになる、ということです。

 

つまり、『いのちの中にいる』というのは、『生きる』ということである、ということです。「その30」の下から10段落目の、「ところで、」から始まる段落以下をご参照ください。

 

その32、に続きます。

「神殿」について その30

新改訳聖書』第3版のコリント人への手紙 第二5章1節(その27前半)に、次のように書かれています。
***
1節
私たちの*住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

 

* 直訳「地上の幕屋の家」

 

***

 

1行目から、「私たちの(*住まいである地上の幕屋)地上の幕屋の家がこわれても、『神の下さる建物』があることを、私たちは知っています。・・・」とあります。

 

また2行目から、「・・・それは、『人の手によらない、天にある永遠の家』です。」とあります。

 

「それ」というのは、『神の下さる建物』のことです。

 

2行目からの引用は、「・・・『神の下さる建物』は、『人の手によらない、天にある永遠の家』です。」となります。

 

コリント人への手紙 第二5章2節(その27後半)に、次のように書かれています。
***
2節
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
***

 

「私たちは・・・『この天から与えられる住まい』を着たいと望んでいます。」とあります。

 

『この天から与えられる住まい』というのは、上記冒頭5章1節の、『神の下さる建物』のことであり、また『人の手によらない、天にある永遠の家』のことです。

 

「『この天から与えられる住まい』を着たい」(上記2節)は、『神の下さる建物』すなわち『人の手によらない、天にある永遠の家』を着たい、という意味になります。

 

そして、コリント人への手紙 第二5章4節(その27後半)には、2行目から、「・・・それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって『天からの住まいを着たい』からです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」とあります。

 

コリント人への手紙 第二5章4節(その27後半)は、次のようになっています。
***
4節
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
***

 

3行目から、「・・・そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」とあります。

 

「そのこと」というのは、「天からの住まいを着」ること、と考えられます。

 

「そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまう」は、「『天からの住まいを着る』ことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまう」、となります。

 

コリント人への手紙 第二5章4節(上記)の第二文と第三文は、「『天からの住まいを着る』ことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうために」、「天からの住まいを着たい」、という文脈になると思います。

 

ところで、『死ぬべきものがいのちにのまれてしまう』というのは、どのようなことであると考えられるでしょうか。

 

「いのちにのまれてしま」ったら、『いのちの中にいる』、ということになります。

 

『いのちの中にいる』ということは、『生きる』、ということではないでしょうか。

 

「私たち」(上記5章4節など)は『死ぬべきもの』です。

 

ヨハネ福音書14章6節に、次のように書かれています。
***
6節
エスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
***

 

1行目から、『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。・・・』とあります。

 

「わたし」というのは、「イエス」のことです。

 

「わたしが道であり、真理であり、『いのち』なのです」は、「『イエス』が道であり、真理であり、『いのち』なのです」、となります。

 

『イエス』が『いのち』なのです。

 

その31、に続きます。