「律法学者」について その5

新改訳聖書』第3版のマタイの福音書23章1節から3節までに、次のように書かれています。
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1節
そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、
2節
こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
3節
ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
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これらの記述から、「律法学者、パリサイ人たち」は、『律法』を「教えている」、と言うことはできると思います。

 

しかし、2行目から、「・・・彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」とあります。

 

モーセの座を占めてい」(2節)るのであれば、「モーセが言っている、「『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』」(マルコ7:10、その2後半およびその3冒頭)ということを、「律法学者、パリサイ人たち」は教えるべきである、ということになると思います。

 

しかし、「彼ら」すなわち「律法学者、パリサイ人たち」は、言うことを実行しない、ということが言われています。

 

エスが、「彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい」(3節)と言われていることから、「彼ら」は『律法』を「教えている」と考えられます。

 

「教えている」のに「実行しない」、ということだと思います。

 

そのような人たちに、『権威』がある、と言えるでしょうか。

 

マルコの福音書7章6節と7節(いずれも、その1冒頭)で、イザヤが、『(6節)この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。(7節)彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』と言っている通りである、と思います。

 

『律法』を教えているとしても、「実行しない」のであれば、事実上、「教えていることにはならない」、のではないでしょうか。

 

「律法学者、パリサイ人たち」には、説得力がありません。

 

そのような人たちに、『権威』がある、と言えるでしょうか。

 

「律法学者、パリサイ人たち」は、『神のことば』(マルコ7:13、その4後半)を教えていることにはならいのであって、「『人間の教え』を、教えとして教えるだけ」(マルコ7:7、その1冒頭)である、ということだと思います。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。