「律法学者」について その3

新改訳聖書』第3版のマルコの福音書7章10節(その2後半)から12節までに、次のように書かれています。
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10節
モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。
11節
それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、
12節
その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。
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10節に書かれている、『あなたの父と母を敬え』と『父や母をののしる者は死刑に処せられる』、が『神の戒め』です。

 

エスは、11節と12節で、「(11節)それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、(12節)その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。」と言われています。

 

ここで言われていることは、少し分かりにくいかと思います。

 

そこで、「かみ砕いて」述べてみようと思います。

 

まず、「それなのに」(11節)、というのは、「モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言ってい」(10節)るのに、のことと言うことができると思います。

 

次に、11節から12節にかけて、「あなたがたは、・・・何もさせないようにしています。」と言われています。

 

「あなたがた」というのは、「パリサイ人と律法学者たち」(5節、その1冒頭)のことです。

 

だれにか、と言うと、「その人には」、です。

 

「パリサイ人と律法学者たち」は、「その人には・・・何もさせないようにしています。」(12節)となります。

 

「その人」というのは、上記冒頭11節1行目の、「・・・もし人が父や母に向かって・・・」の「人」のことです。

 

そして、「父や母のために」(12節)は、「何もさせないようにしています。」(同)となり、「パリサイ人と律法学者たち」は、「その人には、父や母のために、何もさせないようにしています。」(同)となります。

 

「パリサイ人と律法学者たち」は、「その人には、父や母のために、何もさせないようにしてい」るので、「その人」は「父や母のために」は何もしないようになる、ということになると思います。

 

そしてそれは、「もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば」(11節)、です。

 

「もし『人が』・・・言えば」です。

 

「パリサイ人と律法学者たち」が言えば、ではありません。

 

言うのは、『人』です。

 

その4、に続きます。