「大水」について その3

「その1」と「その2」で見たように、『新改訳聖書』第3版詩篇69篇9節の「私」というのは、ヨハネ福音書2章13節から17節までの記述、およびローマ人への手紙15章3節の記述から、「イエス」または「キリスト」のことと考えられます。

 

詩篇69篇9節の「私」が「イエス」または「キリスト」であるとすると、同篇2節の「私」も、「イエス」または「キリスト」ではないか、という考えが浮かびます。

 

新改訳聖書』第3版の詩篇69篇2節は、次のようになっています。
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2節
私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。
私は大水の底に陥り
奔流が私を押し流しています。
***

 

この2節の「私」が、仮に、「イエス」であるとすると、「大水」(2行目)というのは、文字通りの「大水」ではなく、何かの『たとえ』であると考えられます。

 

2行目に、「私は大水の底に陥り」、とあります。

 

「私」が仮にイエスだとすると、イエスは「大水の底に陥」っている、ということになります。

 

しかし、イエスが、文字通りの「大水」の底に陥った、ということは考えられません。

 

文字通りの「大水」の底に陥った場合、イエスは死ぬと考えられるからです。

 

したがってこの場合の「大水」は、何かの『たとえ』であると考えられるのです。

 

何かの『たとえ』であるとすると、何の『たとえ』であると考えられるでしょうか。

 

その4、に続きます。