「懲らしめ」について その6

わたしは以前、「ネブカデレザル」について その22(2022-06-14)、の下から4段落目で、次のように述べました。

 

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つまり、バビロンの王ネブカデレザルによって「この国」が攻められることは、『わざわい』であり、『報い』である、と言うことができると思いますが、それは同時に、『懲らしめ』であり、主が、「あなたがた」を『悪』から立ち返らせるためにされることである、のではないでしょうか。
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エレミヤ書25章11節(その5、後半)の『廃墟』は、同書25章9節の記述より、『バビロンの王ネブカデレザル』によってもたらされる、と考えられます。

 

レビ記26章31節(その4、中ほど)と33節(その5冒頭)の『廃墟』についての記述が、エレミヤ書25章11節に書かれている『廃墟』についての記述と、同じときのことだとすると、レビ記26章33節(その5冒頭)の『懲らしめ』は、主が『バビロンの王ネブカデレザル』を用いて行なわれる、『剣』による『懲らしめ』である、と考えることができると思います。

 

レビ記26章33節(その5冒頭)には、1行目から、「わたしはあなたがたを『国々の間に散らし』、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。・・・」とあります。

 

「あなたがたの町々」が『廃墟』となってからは、「あなたがた」は『国々の間に散ら』されるので、「あなたがたの町々」の住民はそこからいなくなる、のではないかと思われます。

 

したがって、それらの町々で『懲らしめ』られる、ということは、それ以降はもう無くなる、と言うことができると思います。

 

つまり、レビ記26章29節から33節まで(その4、中ほど)に書かれている『懲らしめ』は、「あなたがたの町々」の住民に対する『懲らしめ』としては、最後の『懲らしめ』になる、ということです。

 

レビ記26章29節から33節まで(その4、中ほど)に書かれていることは、何度かある『懲らしめ』のうちの最後である(その5をご参照ください)、と考えられることからも、『懲らしめ』られることはもう無くなる、と言うことができると思います。

 

新改訳聖書』第3版のへブル人への手紙12章9節と10節に、次のように書かれています。
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9節
さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10節
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖(きよ)さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
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10節2行目から、「・・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖(きよ)さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」とあります。

 

「霊の父」とは誰でしょうか。

 

『神』、ではないでしょうか。

 

「ご自分の聖(きよ)さにあずからせようとして」(3行目)、とあることからも、「霊の父」というのは『神』のことである、と言うことができると思います。

 

「霊の父は、・・・私たちをご自分の聖(きよ)さにあずからせようとして、懲らしめるのです」、ということは、言い換えると、悔い改めて、ご自分に立ち返らせようとされる、ということではないでしょうか。

 

さらに言い換えると、それは、主のことばを聞き、主のことばに従うようにされる、ということではないでしょうか。

 

へブル人への手紙12章9節(上記)に、「・・・私たちはすべての霊の父に『服従して生きる』べきではないでしょうか。」とあります。

 

悔い改めて、『神』に立ち返り、主のことばを聞き、主のことばに従うようにならなければ、「ご自分の聖(きよ)さにあずか」ることはできない、と思われます。

 

なぜなら、悔い改めない限り、御霊(みたま)が与えられることはなく、したがって、「肉にある者」(ローマ8:8)のままであるしかないからです。

 

「肉にある者」(ローマ8:8)は『汚(けが)れる』、のではないでしょうか。

 

「肉にある者」は『汚(けが)れる』と考えられるので、「ご自分の聖(きよ)さにあずか」ることはできない、と思われます。

 

その7、に続きます。