『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書25章5節(その19、冒頭)に、次のように書かれています。
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5節
主は仰せられた。「さあ、おのおの、悪の道から、あなたがたの悪い行いから立ち返り、主があなたがたと先祖たちに与えた土地で、いつまでも、とこしえに住め。
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1行目から、「・・・悪の道から、あなたがたの悪い行いから立ち返り、・・・」とあります。
この言葉から、「あなたがた」は『悪の道』を歩み、『悪い行い』をしている、ということが分かります。
「あなたがた」が『悪の道』を歩み、『悪い行い』をしている、ということは、「主」(5節、上記冒頭)のことばを聞かず、また「主」のことばに従わなかった、ということを意味していると思います。
その『ために』、「身に『わざわい』を招」(7節、その19冒頭など)くことになる、と言うことができると思います。
逆に、「主」のことばを聞き、「主」のことばに従うなら、幸せになり、祝福を受ける、と言うことができます。
「あなたがた」が「主」(5節、上記冒頭)のことばを聞かず、「主」のことばに従わなかったために、「あなたがた」は『悪の道』を歩み、『悪い行い』をした、ということだと思います。
そして、その『悪い行い』に対する『報い』が、『わざわい』である、のではないでしょうか。
エレミヤ書25章の場合、『わざわい』というのは、バビロンの王ネブカデレザルによって、「この国」が攻められること、と考えられます。「その21」をご参照ください。
これはまた、『悪い行い』に対する『懲らしめ』と考えることができるのではないでしょうか。
『懲らしめ』られることによって、自分たちの『悪』に気づき、「悪の道から、あなたがたの悪い行いから立ち返」るなら、「主があなたがたと先祖たちに与えた土地で、いつまでも、とこしえに住」(5節、上記冒頭)むことができる、ということだと思います。
そして、「主があなたがたと先祖たちに与えた土地で、いつまでも、とこしえに住」(5節)むことができる、というのは、幸せになる、ということを意味していると思います。
つまり、バビロンの王ネブカデレザルによって「この国」が攻められることは、『わざわい』であり、『報い』である、と言うことができると思いますが、それは同時に、『懲らしめ』であり、主が、「あなたがた」を『悪』から立ち返らせるためにされることである、のではないでしょうか。
そうするために、すなわち、「あなたがた」を『悪』から立ち返らせるために、主は『バビロンの王ネブカデレザル』を用いられる、ということではないでしょうか。
主がバビロンの王ネブカデレザルのことを、『わたしのしもべ』(9節2行目、その18冒頭)と呼ばれるのは、バビロンの王ネブカデレザルが、『主のみこころを行なうために用いられる』からではないでしょうか。
どのように思われますか。