「バビロン」について その5

新改訳聖書』第3版のダニエル書6章1節と2節に、次のように書かれています。
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1節
ダリヨスは、全国に任地を持つ百二十人の太守を任命して国を治めさせるのがよいと思った。
2節
彼はまた、彼らの上に三人の大臣を置いたが、ダニエルは、そのうちのひとりであった。太守たちはこの三人に報告を出すことにして、王が損害を受けないようにした。
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この1節と2節の記述から、『バビロンの地』には人がいて、治める者と治められる者がいる、ということが分かります。

 

つまり、このとき「バビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようにな」(イザヤ13:19、その1及びその3冒頭)ってはいない、ということです。

 

イザヤ書13章20節(その1中ほど)の、「そこには(すなわち、バビロンには)永久に住む者もなく、代々(よよ)にわたり、住みつく者もな・・・い。」というのは、イザヤ書13章17節から19節まで(その3冒頭)の文脈より、バビロンが、「神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようにな」った結果のことである、と言うことができると思います。

 

つまり、バビロンが、「神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようにな」った結果、バビロンには「永久に住む者もなく、代々(よよ)にわたり、住みつく者もな」くなる、ということです。

 

そして、イザヤ書13章17節から19節まで(その3冒頭)の記述より、バビロンが、「神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる」のは、『メディヤ人』によってである、と言うことができます。

 

つまり、『メディヤ人』がバビロンを、「神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のように」し、バビロンには永久に住む者もなく、代々(よよ)にわたり、住みつく者もな」くなる、ということです。

 

しかし、上記冒頭ダニエル書6章1節と2節の記述から、このとき、すなわち、ダニエル書5章30節と31節(いずれも、その4後半)に書かれている事が起こったとき、『バビロンの地』には人が住んでいる、ということが分かります。

 

すなわち、エレミヤ書50章40節(その1前半)に書かれているように、「そこには人が住まず、そこには人の子が宿らな」くなってはおらず、また、イザヤ書13章20節(その1中ほど)に書かれているように、「そこには永久に住む者もなく、代々(よよ)にわたり、住みつく者もなく」なってはいないのです。

 

このとき、すなわち、ダニエル書5章30節と31節(いずれも、その4後半)に書かれている事が起こったとき、『バビロンの地』には、人が住んでいるのです。

 

したがって、ダニエル書5章30節と31節に書かれているのは、イザヤ書13章19節(その1冒頭)、及びエレミヤ書50章40節(その1前半)に書かれているときのことでは『ない』、と言うことができます。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。