『新改訳聖書』第3版の詩篇69篇19節に、次のように書かれています。
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19節
あなたは私へのそしりと、
私の恥と私への侮辱とをご存じです。
私に敵対する者はみな、あなたの御(み)前にいます。
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「私へのそしり」(1行目)と「私への侮辱」(2行目)とあります。
「私へのそしり」と「私への侮辱」は、誰からのものと考えられるでしょうか。
「私に敵対する者」(3行目)からのもの、ではないでしょうか。
そして、「ゆえなく私を憎む者」(69篇4節、その5前半)や「私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵」(同)などは、「私に敵対する者」と言うことができるのではないでしょうか。
「私へのそしり」(上記19節)および「私への侮辱」(同)というのは、「私に敵対する者」からのものと考えられますが、それは、「ゆえなく私を憎む者」(69篇4節、その5前半)や「私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵」(同4節)どもからのもの、と考えることもできるのではないでしょうか。
「私に敵対する者」(上記19節)、「ゆえなく私を憎む者」(69篇4節、その5前半)や「私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵」(同4節)どもが、「私」をそしり「私」を侮辱したりするので、「私は苦しんでい」(69篇17節、その8中ほど)る、ということになると思います。
「大水の底」にいるというのは、どんなことであると考えられるのか(その7最後のほう)、と言いますと、それは、「私」は「私」をそしり「私」を侮辱したりする者たちなどの真っただ中にいる、ということではないかと思われます。
詩篇69篇14節(その7前半)3行目からの、「・・・大水の底から、私が救い出されるようにしてください」というのは、「私」をそしり「私」を侮辱したりする者たちなどから救い出されるようにしてください、ということではないでしょうか。
これまで述べて来たことから、詩篇69篇2節(その3前半)の「大水」というのは、「私に敵対する者」(19節)、「ゆえなく私を憎む者」(4節)、「私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵」(4節)ども、また、「私」をそしり「私」を侮辱したりする者たちなどの『たとえ』として用いられているのではないかと思われます。
そして、イエスが地上におられたときには、「私に敵対する者」(19節)、「ゆえなく私を憎む者」(4節)、「私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵」(同4節)ども、また、「私」をそしり「私」を侮辱したりする者たちなどとしては、ユダヤ人だけではなく、ローマ人もいた、と言うことができると思います。
ヨハネの黙示録17章では、「大水」は「もろもろの民族、群衆、国民、国語」の『たとえ』として用いられている、と言うことができると思います。「その4」(2022-11-10)をご参照ください。
ユダヤ人やローマ人は、「民族」または「国民」と言うことができると思います。
ローマ人は「異邦人」または「国々」の民の一つ、と言うことができます。
イエスが地上におられたとき、「異邦人」または「国々」の民として、ローマ人以外の民がいて、イエスをそしりイエスを侮辱したりする者たちがいたのかどうかについては、もう少し読み込んでから述べようと思います。
わたしは、「その5」(2022-11-12)の第二段落で、詩篇69篇2節(その3前半)の「大水」についてはどうでしょうか、と書きました。
詩篇69篇2節の「大水」については、「大水」は、「私に敵対する者」(詩篇69篇19節、上記冒頭)、「ゆえなく私を憎む者」(同篇4節、その5前半)、「私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵」(同4節)ども、また「私」をそしり「私」を侮辱したりする者たちなどの『たとえ』として用いられているのではないかと思います。
いかがでしょうか。どのように思われますか。