「大水」について その7

新改訳聖書』第3版の詩篇69篇1節から3節まで(その5中ほど)に、次のように書かれています。
***
1節
神よ。私を救ってください。
水が、私ののどにまで、入って来ましたから。
2節
私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。
私は大水の底に陥り
奔流が私を押し流しています。
3節
私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、
私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました。
***

 

また、同篇14節と15節に、次のように書かれています。
***
14節
私を泥沼から救い出し、
私が沈まないようにしてください。
私を憎む者ども、また大水の底から、
私が救い出されるようにしてください。
15節
大水の流れが私を押し流さず、
深い淵は私をのみこまず、
穴がその口を
私の上で閉じないようにしてください。
***

 

詩篇69篇2節(上記冒頭)2行目から、「私は大水の底に陥り 奔流が私を押し流しています。」とあり、同篇14節3行目から、「私を憎む者ども、また大水の底から、私が救い出されるようにしてください。」とあります。

 

「私を憎む者ども・・・から、私が救い出されるようにしてください」とあることから、「私」は文字通りの「大水の底」にいるのではない、ということが分かります。

 

「私」は「私を憎む者ども」がいる所にいる、のではないでしょうか。

 

「私を憎む者ども」がいるので、「私を憎む者ども・・・から、私が救い出されるようにしてください」と願っているのであって、「私を憎む者ども」も「大水の底」にいて、「私」を憎んでいるとは思えません。

 

「私」が文字通りの「大水の底」にいるとすると、「私を憎む者ども」のことを気にしている余裕はないと考えられ、「私を憎む者ども」から救い出されるということは、考えられないのではないでしょうか。

 

「大水」からどうやって逃れるか、というようなことしか考えられないか、あるいは、何かを考えることなどできないのではないか、と思われます。

 

「私を憎む者ども」のことを考えている余裕はない、ということです。

 

では、「大水の底」にいるというのは、どんなことであると考えられるでしょうか。

 

その8、に続きます。