「大水」について その6

新改訳聖書』第3版の詩篇69篇2節(その5中ほど)の、「大水」や「奔流」が、もしも文字通りのものであるとすると、「私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました」というのは、文字通りの「大水の底」でのことであり、文字通りの「奔流が私を押し流してい」るときのことである、ということになると思います。

 

文字通りの「大水の底」にいて、文字通りの「奔流が私を押し流してい」るとすると、「私」は、やがて死ぬと思われます。

 

もし「私」が文字通りの「大水の底」にいて、文字通りの「奔流が私を押し流してい」るとするなら、4節(その5前半)の、「ゆえなく私を憎む者」や「私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵」は、「私」にとっては何の意味もない存在になると思います。

 

文字通りの「大水の底」にいて、文字通りの「奔流が・・・押し流してい」る者にとって、「ゆえなく私を憎む者」や「私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵」がいたとしても、そのことを気にしている余裕などないと考えられるからです。

 

「ゆえなく私を憎む者」や「私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵」がいたとしても、それどころではない、ということです。

 

「ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多」いとしても、また、「私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強い」としても、文字通りの「大水の底」にいて、文字通りの「奔流が・・・押し流してい」る者にとっては、関係ない、ということです。

 

「大水」と「奔流」からどうやって逃れるか、ということしか考えられないのではないか、あるいは、何かを考えることなどできないのではないか、と思われます。

 

以上のようなことから、「私は大水の底に陥り 奔流が私を押し流しています」(69篇2節、その5中ほど)、というのは、文字通りのことではなく、何かの『たとえ』であり、それは、「ゆえなく私を憎む者」が「私の髪の毛よりも『多・・・い』」ということ、また、「私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵」が『強い』ということに関係があることを言い表しているのではないか、と思われるのです。

 

その7、に続きます。