「大水」について その5

新改訳聖書』第3版のヨハネの黙示録17章1節(その4冒頭)、および同章15節(その4前半)の記述から、「大水」は「もろもろの民族、群衆、国民、国語」の『たとえ』として用いられている、と言うことができると思います。

 

詩篇69篇2節(その3前半)の「大水」についてはどうでしょうか。

 

詩篇69篇4節に、次のように書かれています。
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4節
ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、
私を滅ぼそうとする者、
偽り者の私の敵は強いのです。
それで、私は盗まなかった物をも
返さなければならないのですか。
***

 

1行目から、「ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵は強いのです。・・・」とあります。

 

「ゆえなく私を憎む者」が「私の髪の毛よりも『多・・・い』」ということ、また、「私を滅ぼそうとする者、偽り者の私の敵」が『強い』ということに関係があることを言い表すものとして、「私は大水の底に陥り 奔流が私を押し流しています」(69篇2節、その3前半)、と言われているのではないでしょうか。

 

詩篇69篇1節から3節までに、次のように書かれています。
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1節
神よ。私を救ってください。
水が、私ののどにまで、入って来ましたから。
2節
私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。
私は大水の底に陥り
奔流が私を押し流しています。
3節
私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、
私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました。
***

 

3節に、「私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました。」とあります。

 

「私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果て・・・た」のは、文脈からして、「水が、私ののどにまで、入って来」(1節)て、「私は深い泥沼に沈み、足がかりも」(2節)なく、「大水の底に陥り 奔流が私を押し流してい」(2節)るから、と言うことができると思います。

 

言い換えると、「水が、私ののどにまで、入って来」(1節)て、「私は深い泥沼に沈み、足がかりも」(2節)なく、「大水の底に陥り 奔流が私を押し流してい」(同)るから、「私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果て・・・た」、ということだと思います。

 

さらに言いますと、「私は大水の底に陥り 奔流が私を押し流してい」(2節)て、「水が、私ののどにまで、入って来ましたから」(1節)、「神よ。私を救ってください。」(1節)と「呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました」(3節)、ということだと思います。

 

その6、に続きます。