「大水」について その9

新改訳聖書』第3版の詩篇69篇17節(その8中ほど)2行目に、「私は苦しんでいます。・・・」とあります。

 

「私」が苦しんでいるのは、7節(その8冒頭)などの「そしり」や「侮辱」を受け、11節の「彼らの物笑いの種」となり、12節の「酔いどれの歌」になったから、ではないでしょうか。

 

そのように考えることはできると思います。

 

詩篇69篇14節(その7中ほど)に、次のように書かれています。
***
14節
私を泥沼から救い出し、
私が沈まないようにしてください。
私を憎む者ども、また大水の底から、
私が救い出されるようにしてください。
***

 

13節(その8後半)で、「私」が、「御(み)救いのまことをもって、『私に答えてください』」と言った直後に、14節で、「私」は「私を泥沼から『救い出し』、・・・私を憎む者ども、また大水の底から、私が『救い出される』ようにしてください」、と言っています。

 

つまり、私が『救い出される』ことが、私に『答えてくださる』ことである、ということが言えると思います。

 

そして、「私を泥沼から『救い出し』、私が沈まないようにしてください。私を憎む者ども、また大水の底から、私が『救い出される』ようにしてください。」(14節)と願っているのは、「私」が「泥沼」にいるからであり、「私」を憎む者どもがいるからであり、また「私」が「大水の底」にいるからである、と言うことができると思います。

 

そして、「私」が大水の底にいるから、「水が、私ののどにまで、入って来・・・た」(69篇1節)、ということになると思います。

 

69篇1節(その5中ほど)で、「神よ。私を救ってください。」と願っているのは、「水が、私ののどにまで、入って来・・・た」(1節)からです。詩篇69篇1節(その5中ほど)をご参照ください。

 

それと同様に、14節で「私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください。私を憎む者ども、また大水の底から、私が救い出されるようにしてください。」と願っているのは、「水が、私ののどにまで、入って来・・・たから」ではないでしょうか。

 

「私」が苦しんでいるのは、「水が、私ののどにまで、入って来・・・たから」である、と言うことができますが、それは、「私」が「大水の底」にいるからであり、「私」が「泥沼」にいるからであり、「私」を憎む者どもがいるからである、と言うことができると思います。

 

「私」を憎む者どもがいるから、「私を憎む者ども・・・から、私が救い出されるようにしてください」、ということになると思いますが、このことから、「私」は文字通りの「大水の底」にいるのではない、ということが分かります。

 

「私を憎む者ども」は、「私」を『そしり』『侮辱し』『彼らの物笑いの種とし』『酔いどれの歌にする』ので、『私は苦しんでいる』、ということではないでしょうか。

 

わたしは、「その8」の最後のほうで、『では、「私」は、なぜ苦しんでいると考えられるでしょうか。』と述べました。

 

それは、「水が、私ののどにまで、入って来」たから、と言うことができると思います。

 

では、「水が、私ののどにまで、入って来」たというのは、どのようなことであると考えられるでしょうか。

 

それは、「私を憎む者ども」が、「私」を『そしり』『侮辱し』『彼らの物笑いの種とし』『酔いどれの歌にする』、というようなことではないでしょうか。

 

「私を憎む者ども」が、「私」を『そしり』『侮辱し』『彼らの物笑いの種とし』『酔いどれの歌に』し、「水が、私ののどにまで、入って来」て、『私は苦しんでいる』、ということではないかと思われます。

 

その10、に続きます。