「来られる」について その5

新改訳聖書』第3版のゼカリヤ書14章2節(その4、前半)に、次のように書かれています。
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2節
わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行(い)く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。
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この2節の記述は、「その4」で引用された、ルカの福音書1章の記述と似ています。

 

ルカの福音書21章20節(その4、中ほど)に、「・・・エルサレムが軍隊に囲まれる・・・」とあり、24節(同、後半)に、「人々は、・・・『捕虜』となって『あらゆる国』に連れて行(い)かれ・・・ます。」とあります。

 

ゼカリヤ書の、「わたしは、『すべての国々』を集めて、エルサレムを攻めさせる・・・」と、「・・・町の半分は『捕囚』となって出て行(い)く・・・」、というところが似ています。

 

ゼカリヤ書14章3節(その4冒頭)に、「が出て来られる・・・」、とあります。

 

それは、いつのことであると考えられるでしょうか。

 

ルカの福音書では、24節に続いて、25節と26節があり、27節に、次のように書かれています。

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21章27節
そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
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「人の子が・・・来る」、とあります。

 

「来られる」について その1(2021-02-03)で述べたように、「人の子」は『神である主』として来られるのではないか、と思われます。

 

そして、『神である主』というのは、ゼカリヤ書14章3節(その4冒頭)の、「が出て来られる・・・」の「のことではないか、と思われるのです。

 

「人の子が・・・来る」というのは、『神である主』が来られるということであり、それは、「」が来られるということではないか、と現時点では考えています。

 

つまり、「人の子が・・・来る」というのは、「が来られる(ゼカリヤ書14章3節、その4冒頭)ということではないかと現時点では考えている、ということです。

 

ルカの福音書では、21章20節から24節までに書かれていることの『あと』に、27節(上記)に、「人の子が・・・来る」、ということが書かれています。

 

言い換えると、「エルサレムが軍隊に囲まれ」た『あと』に、「人の子」は来る、ということです。

 

ゼカリヤ書14章の場合も、それと同じなのではないか、と現時点では考えています。

 

つまり、2節に書かれていることの『あと』に、言い換えると、「すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせ」た『あと』に、「が出て来られる」(14章3節)のではないか、ということです。

 

そして、ゼカリヤ書14章4節(その4、冒頭)1行目から、「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。・・・」とあります。

 

エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ」という言葉から、主は『地に』来られる、と考えられます。

 

これは、ミカ書1章3節(その3、冒頭)3行目の、「地の高い所を踏まれる・・・」、のことではないかと思います。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。