『新改訳聖書』第3版のエレミヤ書25章15節から18節までに、次のように書かれています。
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15節
まことにイスラエルの神、主は、私にこう仰せられた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。
16節
彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のためである。」
17節
そこで、私は主の御(み)手からその杯を取り、主が私を遣わされたすべての国々に飲ませた。
18節
エルサレムとユダの町々とその王たち、つかさたちに。―彼らを今日のように廃墟とし、恐怖とし、あざけりとし、のろいとするためであった。―
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18節1行目に、「エルサレムとユダの町々とその『王たち』、つかさたちに。・・・」とあります。
「・・・その『王たち』」に「飲ませた」(17節)、となります。
「その」というのは、「エルサレムとユダの町々」の、のことと考えられます。
そうすると、「その『王たち』」というのは、「エルサレムとユダの町々の『王たち』」、のこととなります。
「飲ませた」のは誰かと言いますと、『私』(17節)です。
17節に、「『私』は・・・主が私を遣わされたすべての国々に飲ませた。」とあります。
『私』(17節)というのは、「エレミヤ」のこと、と言うことができるのではないでしょうか。
仮に、エレミヤのことだとします。
そうすると、例えばエレミヤが、「ユダの王ゼデキヤ」の時代にいる場合、エレミヤが「その杯」(17節)から飲ませることができるのは、「ユダの王ゼデキヤ」という『王』に、であって、『王たち』に、ではない、ということになります。
ユダの王ゼデキヤの時代には、ユダの王ゼデキヤ以外の王は、死んでいるか、あるいは、どこかの国に連れて行かれているからです。
「その『王たち』」(18節)に「飲ませた」(17節)というのは、どのように理解したらよいと思われますか。