「エホヤキム」について その4

新改訳聖書』第3版のエレミヤ書36章30節に、次のように書かれています。
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30節
それゆえ、はユダの王エホヤキムについてこう仰せられる。彼には、ダビデの王座に着く者がなくなり、彼のしかばねは捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる。
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2行目から、「・・・彼のしかばねは捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる。」とあります。

 

ここには、『埋められる』(エレミヤ22:19、その3冒頭)ということは書かれていません。

 

36章30節(上記)を読むと、「彼(すなわち、ユダの王エホヤキム)のしかばね」は、路上か広場のようなところに、放置されているかのように思えます。

 

しかし、「彼のしかばねは捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる」(上記、30節)というのが、エレミヤ書22章19節(その3冒頭)に書かれていることだとすると、「彼のしかばねは捨てられ」る、とは言っても、それは、放置されているのではなく、「埋められる」(エレミヤ22:19)という形で「捨てられる」、ということになると思います。

 

エレミヤ書36章30節(上記冒頭)と22章19節(その3冒頭)に書かれていることが、「同じとき」のことだとすると、です。

 

22章19節(その3冒頭)には、「彼は・・・ろばが埋められるように埋められる。」とあります。

 

「ろばが埋められるように」というたとえが用いられていますが、「ろばが埋められるように」というのは、どのように埋められることなのか、よく分かりません。

 

仮にそれが、ろばの、首から上は地面から出ている、というような埋められ方であるとすると、「昼は暑さに、夜は寒さにさらされる」(36章30節、上記)、というのは理解できると思います。

 

エルサレムの門』のところで「埋められる」(22章19節、その3冒頭)という場合であっても、「彼のしかばねは捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる」(36章30節、上記冒頭)という場合であっても、エホヤキムは、『彼の先祖たちとともに眠』(Ⅱ列24:6、その1冒頭)る、ということにはならないと思います。

 

また、歴代誌 第二36章6節(その2、冒頭)の記述を考慮すると、『エルサレムの門』のところで「埋められる」(エレミヤ書22章19節、その3冒頭)という場合、エホヤキムはバビロンから帰って来た、ということになります。

 

エホヤキムはバビロンから帰って来たと言えるでしょうか。

 

以上述べて来たことからすると、エレミヤ書22章、および、36章の当該箇所に書かれている『ユダの王エホヤキム』と、列王記 第二24章、および、歴代誌 第二36章の当該箇所に書かれている『ユダの王エホヤキム』とは違うのではないか、という考えが浮かびます。

 

いかがでしょうか。どのように思われますか。