「よみ」について その9の3

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書32章30節(その9の2、冒頭)3行目から、「・・・それで割礼を受けていない彼らは、・・・横たわり、・・・自分たちの恥を負っている。」とあります。

 

この「自分たちの恥を負っている」というのは、『よみ』でのこと、つまり、「その墓の回り」でのこと、と言うことができると思います。

 

30節(その9の2、冒頭)4行目から、「・・・彼らは、剣で刺し殺された者たちとともに横たわ・・・っている」とありますが、『横たわる』のは、『よみ』でのこと、「その墓の回り」でのことだからです。

 

「横たわり、・・・自分たちの恥を負っている」とあるので、『よみ』で「横たわり、・・・自分たちの恥を負っている」、と言うことができると思います。

 

同節3行目の「・・・それで・・・」というのは、「彼らの勇敢さは恐怖を巻き起こしたが、恥を見、刺し殺された者たちとともに下った」ので、のことと思われます。

 

『地上』では、「彼らの勇敢さは恐怖を巻き起こした」が、「恥を見」て「刺し殺された者たちとともに下ったので」、『よみ』では、「横たわり」、「自分たちの恥を負っている」、という文脈になると思われます。

 

同節3行目から、「・・・それで割礼を受けていない彼らは、剣で刺し殺された者たちとともに横たわ・・・っている。」とあります。

 

「北のすべての君主たち、およびすべてのシドン人」は、「剣で刺し殺された者たちとともに横たわ・・・っている」、ということが分かります。

 

また、「北のすべての君主たち、およびすべてのシドン人」は、「穴に下る者たちとともに自分たちの恥を負っている」、ということが分かります。

 

「自分たちの恥を負っている」者としては、
①「エラム」と「そのすべての群集」(24節)
②「北のすべての君主たち」と「すべてのシドン人」(30節)がいます。

 

これまで述べて来たように、エゼキエル書32章21節から30節までには、『よみ』でのことが書かれている、と言うことができる思います。

 

31節と32節も、『よみ』でのことと言えると思いますが、内容については、もう少し考えてから述べたいと思います。

 

以上、エゼキエル書32章の『よみ』について、述べました。