「よみ」について その4の5

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書32章25節(その4の4、冒頭)4行目から、「・・・それで彼らは穴に下る者たちとともに自分たちの恥を負っている。・・・」とあります。

 

「それで」というのを、「彼らの恐怖が生ける者の地にあった」(25節3行目から)ので、ということであると考えると、「彼らの恐怖が生ける者の地にあった」ので、「彼らは・・・自分たちの恥を負っている」、となります。

 

「自分たちの恥を負っている」というのは、どのようなことであると考えられるでしょうか。

 

「彼らの恐怖が生ける者の地にあった」というのを、「彼ら」が「生ける者の地」で、例えば、剣で刺し殺すような恐怖を与えた、ということだとします。

 

剣で刺し殺すような恐怖を与えたのに、「彼ら」自身が「剣で刺し殺された者」となるなら、「彼ら」は恥を見る、ということにならないでしょうか。

 

強さを誇って、剣で刺し殺すような行為をしたのに、自分自身が剣で刺し殺されるなら、その誇りは砕かれ、強いものでないことが思い知らされ、「恥を見る」、というようなことではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 

「彼らは・・・自分たちの恥を負っている」というのは、「彼ら」が「生ける者の地」で「恥を見た」ので、『よみ』では、「自分たちの恥を負っている」、ということではないか、と現時点では考えています。

 

「自分たちの恥を負っている」、あるいは、「恥を負っている」については、聖書のほかの箇所の記述とも照らし合わせて、さらに検討しようと思います。

 

その5、に続きます。