「よみ」について その4の2

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書32章25節(その4の1、冒頭)1行目から、「・・・そのすべての群集も、その墓の回りにいる。みな、割礼を受けていない者、剣で刺し殺された者である。彼らの恐怖が生ける者の地にあったからである。それで彼らは穴に下る者たちとともに自分たちの恥を負っている。・・・」とあります。

 

24節(その3の1、その3の3、冒頭)に書かれていることと、似ています。25節も、「エラム」と「そのすべての群集」について書かれている、ということを示すためではないかと思われます。

 

「彼らの恐怖が生ける者の地にあったから」(25節3行目から)、「その寝床(ねどこ)は刺し殺された者たちの間に置かれ、そのすべての群集も、その墓の回りにいる。みな、割礼を受けていない者、剣で刺し殺された者である。」という文脈になると思われます。

 

あるいは、「彼らの恐怖が生ける者の地にあったから」(25節3行目から)、「その寝床(ねどこ)は刺し殺された者たちの間に置かれ、そのすべての群集も、その墓の回りにいる。」という文脈になると思われます。

 

「みな、割礼を受けていない者・・・である」、というのは、「彼らの恐怖が生ける者の地にあった」ということと、因果関係があるのかどうかについては、今のところ何とも言えません。

 

つまり、「彼らの恐怖が生ける者の地にあったから」、「みな、割礼を受けていない者・・・である」、と言えるのかどうかについては、今のところ何とも言えない、ということです。

 

上記の「あるいは、」以下のように考えるなら、理解しやすいと思います。

 

要約すると、彼らの恐怖が生ける者の地にあったから、彼らは剣で刺し殺された者となり、『よみ』に下って、その墓の回りに、すなわち、「勇敢な勇士たち」の墓の回りにいる、になると思われます。

 

その4の3、に続きます。