「暴虐」について その14

もしも、『新改訳聖書』第3版のエゼキエル書7章8節と9節(その13、後半)に書かれていることが、8章18節(その13、冒頭)の、「・・・わたしも憤って事を行う。わたしは惜しまず、あわれまない。・・・」のことだとすると、エゼキエル書7章に書かれていることの中に、「憤って事を行う」に当たることが書かれているのではないか、と思われます。

 

新改訳聖書』第3版のエゼキエル書7章11節と12節に、次のように書かれています。
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11節
暴虐はつのって悪の杖となり、彼らも、その群集も、彼らの富もなくなり、彼らのために嘆く者もいなくなる。
12節
その時が来た。その日が近づいた。買う者も喜ぶな。売る者も嘆くな。燃える怒りがそのすべての群集にふりかかるから。
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11節に、「暴虐はつのって悪の杖となり、・・・」とあり、12節に、「・・・燃える怒りがそのすべての群集にふりかかる・・・」とあります。

 

14節には、「・・・わたしの燃える怒りがそのすべての群集にふりかかる・・・」とあります。

 

「暴虐」があるために、「燃える怒りがそのすべての群集にふりかかる」、と考えられます。

 

「憤って事を行う」(8章18節、その13冒頭)、というのは、「燃える怒りがそのすべての群集にふりかかる」、のことではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 

「燃える怒りがそのすべての群集にふりかかる」ことが、「憤って事を行う」の「事」に当たるのではないかと思います。

 

もしそうだとすると、「憤って事を行う」に当たることは、7章13節以降に書かれていると思われます。

 

例えば、同章13節に、「売る者は、生きながらえても、売った物を取り返せない。・・・」とあります。

 

「取り返せない」のは、「売った物」が無くなっているからではないかと思われるのですが、これは、「憤って事を行う」の一つではないかと思います。

 

同じように、7章14節の、「ラッパが吹き鳴らされ、みなの準備ができても、だれも戦いに行(い)かない・・・」、というのも、「憤って事を行う」の一つではないかと思います。

 

「わたしの燃える怒りがそのすべての群集にふりかかるから」(7章14節)、「だれも戦いに行(い)かない」という文脈になります。

 

これも、「憤って事を行う」、の一つではないでしょうか。

 

さらに、7章15節から22節までに書かれていることもまた、「憤って事を行う」、に当たることではないかと思います。

 

その15、に続きます。