2014年8月1日の、同じタイトルの記事の中でわたしは、「新改訳」聖書のヘブル人への手紙11章28節にある「過越」という言葉について、この箇所は、「過越の食事」という訳のほうがよいと思います、と書きました。
なぜ、「過越の食事」という訳のほうが、よいと思うのか、と言いますと、「過越」は、「モーセ」が行うことではなく、「神」が行うことである、と考えるからです。
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12節
その夜(よ)、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。
13節
あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
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12節に、「わたしはエジプトの地を巡り」とあります。この中の「わたし」というのは、12節の第二文にある「わたしは主である。」という言葉から分かるように、「主」です。この「主」は、太字で書かれています。
この、太字で書かれている「主」については、「新改訳」聖書(2版3刷)の「あとがき」で、次のように説明されています。
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つまり、太字で「主」と訳されているのは、「主の御名(みな)」である、ということです。「主の御名(みな)」とは何か、と言いますと、それは、神の「固有名詞」とされています。
「固有名詞」というのは、広辞苑によると、「唯一的に存在する事物の名称を表す名詞。地名・人名の類。」とあります。
例えば、「鈴木二郎」という人がいるとします。そうすると、「鈴木二郎」はその人の名まえであり、「人名」です。「人名」なので、それは、「固有名詞」である、と言うことができます。これと同じように、太字で訳されている「主」は、神の「固有名詞」である、ということです。つまり、太字で訳されている「主」は、人間で言うと、「鈴木二郎」のような名まえに当たるもの、ということです。
そして、この太字で訳されている「主」を、ヘブライ語の原語で表すと、「י ה ו ה」となります。
「י ה ו ה」は、四つの文字から成り立っています。ヘブライ語は右から読みます。右から読むと、四つの文字は、それぞれ、「ユッド」「ヘー」「ヴァヴ」「ヘー」と読むことができます。「ユッド」は、「ヨッド」と読まれることもあります。
一つ一つの文字は読めるのですが、四文字全体の読み方は、分かっていません。四文字全体の読み方は、分かっていませんが、「エホバ」と読む人もいれば、「ヤハウェ」と読む人もいます。
したがって、12節の第二文は、「わたしはエホバである。」と言うこともできますし、あるいはまた、「わたしはヤハウェである。」と言うこともできます。「エホバ」と読むのか、「ヤハウェ」と読むのかは分かりませんが、本来、太字の「主」とあるところには、「エホバ」や「ヤハウェ」のような「名まえ」が書かれている、ということです。
そして、13節に、「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。」とあります。「その血」というのは、13節にある「あなたがたのいる家々の血」のことで、もっと具体的に言うと、「二本の門柱」と「かもい」につけられた血のことです。このことは、出エジプト記12章5節から7節までを読むと分かると思います。こうあります。
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5節
あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
6節
7節
その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
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5節に、「あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。」とあります。
そして、「それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。」とあります。「それを」の「それ」というのは、「傷のない一歳の雄」と考えられます。あるいは、「あなたがたの羊」と考えることもできる、かと思いますが、そうすると、「あなたがたの羊を子羊かやぎのうちから取らなければならない。」となります。「羊を子羊かやぎのうちから取らなければならない」とは、どういうことでしょうか。「羊を子羊・・・のうちから取らなければならない」は分かりますが、「羊を・・・やぎのうちから取らなければならない」は理解できません。
これに対して、「傷のない一歳の雄を子羊かやぎのうちから取らなければならない。」であれば、なんとか、理解できます。
あるいは、当時、イスラエルの民は、「羊」と「やぎ」を同じ種類の家畜とみなしていたのでしょうか。つまり、「羊」と言う場合、それは、「やぎ」を指すこともあったのでしょうか。わたしには分からないので、何とも言えません。分かったときに、また、書きたいと思います。
6節に、「あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。」とあります。「それを」の「それ」は、「子羊かやぎ」と考えられます。そうすると、「あなたがたはこの月の十四日まで子羊かやぎをよく見守る。」となります。「そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、」とあります。「それをほふり」の「それ」も、「子羊かやぎ」と考えられます。そうすると、「・・・夕暮れに子羊かやぎをほふり、」となります。
7節に、「その血を取り、」とあります。「その血」の「その」は、「子羊かやぎの」と考えられます。そうすると、「子羊かやぎの血を取り、」となります。そして、「羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。」とあります。「それをつける」の「それ」は、「その血」であり、つまり、「子羊かやぎの血」である、と考えられます。
7節に、「羊を食べる家々」とあります。「羊を」となっていますが、ここは、事実上、「羊かやぎを」ということになると思われます。そうすると、「羊かやぎを食べる家々」となります。
以上、出エジプト記12章5節から7節までのわたしの考えは、すべて、日本語訳が正しいということを前提にして、言えることです。
日本語訳が正しいということを前提にして、以下、話を続けます。
出エジプト記12章5節から7節までを読むと、12章13節の「あなたがたのいる家々の血」というのは、「子羊かやぎ」の血であるということ、また、この「子羊かやぎの血」は、「二本の門柱と、かもい」につけられる、ということが分かります。
12章13節に戻ります。
「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。」この中の「その血」というのは、13節にある「あなたがたのいる家々の血」のことであり、「子羊かやぎの血」のことであり、「二本の門柱と、かもい」につけられた血のことである、と言うことができます。
そして、「わたしは・・・通り越そう。」の「わたし」というのは、「エホバ」または「ヤハウェ」のことである、となります。そして、「通り越そう。」の部分が、「過越」に当たると考えられます。「通り越す」という日本語と、「過ぎ越す」という日本語の違いはありますが、言われていることは、同じであると言えると思います。それは、出エジプト記の12章23節を読むと分かるのではないか、と思われます。12章23節に、こうあります。
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23節
主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。
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「主はその戸口を過ぎ越され」とあります。ここでは、「過ぎ越す」という日本語が使われています。「その戸口」の「その」というのは、ヘブライ語の原語で確認しないと、はっきりしたことは言えませんが、日本語で考える限りでは、「かもいと二本の門柱にある血の」と考えられます。「その戸口」というのは、「かもいと二本の門柱にある血の戸口」、つまり、「かもいと二本の門柱に血のある戸口」と考えられます。
13節では、「あなたがたの所を通り越そう」というように、「あなたがたの所を」となっています。これに対して23節では、「その戸口を過ぎ越され」となっています。そうすると、「あなたがたの所」と、「その戸口」というのが、同じ場所かどうか、ということが問題になるかと思われます。
13節では、「わたしはその血を見て・・・通り越そう。」とあります。この中の「その血」というのは、13節にある「あなたがたのいる家々の血」のことであり、「二本の門柱と、かもい」につけられた血のことである、と言えます。
一方、23節では、「かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主は・・・過ぎ越され」とあります。13節でも23節でも「二本の門柱」と「かもい」の血を見て、「通り越す」あるいは「過ぎ越す」と言うことができます。
したがって、「あなたがたの所」と「その戸口」とは、同じ場所である、と言うことができると思います。
これまで見てきたことから言えるのは、「過越(すぎこし)」と言う場合、「過越」を行うのは、「主」であって、つまり、「神」であって、「モーセ」ではない、ということです。
したがって、「新改訳」聖書のヘブル人への手紙11章28節の、「信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行いました。」の「彼は過越・・・を行いました。」の部分は、「過越」というよりは、「過越の食事」ではないか、ということです。
以上、ヘブル人への手紙11章28節について、見てきましたが、わたしの考えに間違いがある、ということは、十分にありうることです。もし、わたしの考えに間違いがあるようでしたら、遠慮なく指摘していただきたいと思います。間違いがあった場合、もう一度考えてみたいと思います。よろしく、お願いいたします。